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仏像は己を問う鏡

2010年11月2日付 中外日報(社説)

俗に「ブレる」という言い方がある。集団・組織の大小を問わず、指導者たる者はブレてはダメで、ブレないことが人の上に立つ者の資格だと説かれる。

そんな資格のない者がどういう因果か、上に立ってしまった集団は哀れである。得意の朝令暮改を繰り出しては部下をアタフタさせ、せっかくのヤル気を削いでしまう。それにもむろん、反面教師というプラスの面もないわけではないが、集団・組織としては悩ましいかぎりで、不幸というほかない。

その直近の好例として、今年六月、首相経験者が隠然たる影響力を行使するのは良くないと、政界引退を明言して首相を辞任した鳩山由紀夫氏が、舌の根も乾かぬ十月、さらりと引退を撤回している。

元首相の影響力を行使する是非はともかく、一国の政治リーダーの出処進退にかかわるこの軽さは、一体何なんだろうか。国の危うさをひしひしと感じる。この点、いささかなりとも弁護はできない。

ただ一面で、人というものはとかくブレるのだという思いを深くする。右に行くべきか、はたまた左か。散々迷った揚げ句、左に行きかけて、やっぱり右がよさそうだ、と思い返したりもするのである。

漱石の句に、「路岐(みちわかれ)して何(いず)れか是(ぜ)なるわれもかう」というのがあるが、このように、常に是非判断の岐路に立っているのが、ほかならぬ私たちの姿であろう。

親しい友人と時々、「人は皆ヤジロベエだねえ」と話し合っている。右に左に揺れ動き、右に左に傾くのだけれど、どこか釣り合いが保たれて、ともかくも倒れないでいる。しかし、この「ともかくも倒れないでいる」というところが、考えてみれば、極めて肝心なのではあるまいかと思うのだ。

右に左に揺れ動いてやまないヤジロベエがなんとか倒れずにいるのは、短い縦棒に取り付いた湾曲した長い横棒の、その両端の重しが均等だからではある。しかし、それよりなにより、まず支点たる縦棒がしっかりしていないと、ハナシにもならない。バランスを崩す以前の問題である。

この点、人間もまた、そうではないのかと思う。近ごろ、「立ち位置」という言い方もあるけれど、まず縦棒たる人間そのものが歪んだり脆弱だったりしたら、立つ位置どころか、たちまちもって横転してしまうに違いない。

その縦棒とは何か。それは、人間存在というか自己の何たるかを問い続けることではないか。一つ一つの事柄について、私たちはいずれに決すべきか悩み迷い、その揚げ句、決めかねて立ち往生することだって珍しくない。しかし、あれかこれかと大きく揺れ動いたとしても、人間として自己のあるべきスガタを問い続けるならば、たとい一々のことでブレたとしても、人の道を大きく踏み外すことはあるまい。

むろん、自己のあるべきスガタとか自己とは何ぞやと問うても、容易に答えが見つからない。ついに確信する答えなぞ見いだし得ないかもしれない。そういう重い問いを常に意識し、持ち続けることこそが、人の道を踏み外さず、ないし、大きくブレない人生構築の道ではないかと思うのだ。

今、仏像ブームだといわれている。価値観が多様化している時代だから、ブームといっても、それを一義的に把捉できるものではないが、なにかと不安定な世の中である。なんらかのよりどころを求める気持は誰にでもあるし、その点、仏教が示す卓越した美の造形に、多くの人々が流動してやまない自己の心を静かに係留しようとしているのかもしれない。あるいは仏像を、自己を問う鏡と感じているのかもしれない。もし、そうであれば、なにかとタガのゆるんだ世相といわれもするが、そう心配することもないのではないか。