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あの日の広島を書き残して逝く

2010年10月28日付 中外日報(社説)

昨年十月二十九日付本欄で、神奈川県相模原市在住だった元富士電機神戸工場長の鈴木慶三さんが、広島で被爆した時の様子を克明に記録していたことをお伝えした。被爆の一年半後に「記憶が薄れないうちに」と書き留めたものをパソコンに入力した、約六千八百字の手記である。

文書の主の鈴木さんは、体調の良くない日々を重ねて、今年十月十三日に亡くなった。八十歳だった。ヒロシマの貴重な生き証人がまた一人、姿を消したことになる。

鈴木さんの手記は本人の希望で、松江市在住の妹・西尾幸子さんを通じて、広島市の平和公園内にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に納められた。鈴木さんの肉声は聞けないが、文書の形で後世の人々に伝えられる。

鈴木さんは当時、広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属高等学校)の四年生で、特別科学教育研究学級の一人に選ばれ、工場への動員を免除されて理数科授業の特訓を受けていた。被爆時には、広島文理科大学(現・広島大学理学部)の教授から有機化学の講義を受けていた。木造二階の教室は、爆心から約一・五キロ。二十六人の生徒がいた。

原爆の閃光を感じた時、鈴木さんは身を躍らせて教室の隅へ身を伏せた。同じような動作をした者は、ほとんどが無傷だったが、一瞬の行動が遅れた者は、倒れた校舎の材木の下敷きになった。うち一人は梁(はり)に押しつぶされて即死した。

鈴木さんの手記が優れているのは、級友のだれとだれが、どのような状態で材木に挟まれ、それをどうやって救出したかを、具体的に記していることだ。材木を持ち上げるため、別の材木をテコのように使おうとしたが、うまくいかなかった。悪条件の中のサバイバルがいかに困難であるかを示している。

重たい黒板がのしかかると、動かすのが難しい。小さな装飾家具が挟まると意外に厄介だ。そんな貴重な体験を、鈴木さんの手記は知らせてくれる。

最後に救出された級友は危うく焼死するところだった。足は抜けたが、体が抜けない。三人がかりで足をつかみ、むりやり引っ張り出した。燃え盛る火が、すぐそばまで迫っていた。あと数分作業が手間取ったら、救出できなかったと思われる。

その級友は、よほど苦しかったのだろう。ぼろぼろのシャツ姿で脱出した瞬間「有り難う」と言ったまま倒れかかった。失神させてはならないと、皆で顔をなぐりつけた。

救出作業が難航している時、近所に住む人から「家族を助けてくれ」と言ってきた。家の下敷きになり、引き出せないという。しかし鈴木さんたちも、級友を助けるのに手いっぱいだ。心を鬼にして、断わることにした。

長年、校門の前で育ったAさんも、鈴木さんらに救助を求めた記憶がある。しかし援助は受けられず、二人の姉妹を焼死させてしまった。今、東京に住むAさんは、そのことを心の重荷として、六十五年間を生きてきた。

東京で暮らすようになって、時たま帰広しても、自宅のあった場所に足を向けることができなかった。一種のトラウマというべきだろう。そのAさんも、鈴木さんの手記に接して「原爆の時は誰も、自分たちを守ることで大変だったのだ」と理解することができたそうだ。

鈴木さんは級友と共に、火の海になりかけた市街地を走り抜けて脱出した。その途中でも「助けて」の訴えを何度も聞いた。それに応じていたら、共倒れになっただろう。

鈴木さんは、その日の行動を、感情を交えずに淡々と書き残した。この手記から、生き残った者が何を語り継ぐべきか。ヒロシマの決意が問われている。