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宮沢賢治の歌碑 道東の寺に建つ

2010年10月26日付 中外日報(社説)

『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』などの童話や「雨ニモマケズ」の詩で有名な宮沢賢治(一八九六-一九三三)が、田中智学の創始した在家仏教団体・国柱会に加わり、法華の行者となったのは大正九年(一九二〇)。今から九十年前のことである。

賢治の父・政次郎は現在の岩手県花巻市で質商を営み、熱心な浄土真宗の門徒だった。賢治はその父の感化で、仏教への関心を高めた。盛岡中学(現・盛岡一高)を経て盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に進学、卒業後は同校の研究生となり、大正九年、その課程を終えた。

盛岡中学五年生のころ、浄土真宗本願寺派の学僧・島地大等が著わした『漢和対照妙法蓮華経』を読んで法華仏教に関心を持ち、盛岡高農研究生課程修了の年に国柱会入りした。

国柱会は、純正日蓮主義を提唱する日蓮宗僧侶・田中智学が還俗して創立した団体だった。父・政次郎は賢治が真宗の信仰を捨てることに強く反対したが、賢治の決心は変わらない。真宗の碩学である島地大等が法華経を説いた幅広い学識が、賢治の信仰心を真宗から法華仏教に向かわせたことになる。

先述したように、賢治は童話や詩の作者として広く知られている。しかし賢治の文学の出発点は短歌だった。盛岡中学は歌人・石川啄木が学んだ学校である。その影響で短歌に親しむようになった賢治は、三十七年の短い生涯に千首近い作品を残した。

比叡山上の天台宗総本山延暦寺・根本中堂前に「ねがはくは妙法如來正知大師のみ旨成らしめたまへ」の歌碑がある。知識あまねき妙法如来が、伝教大師最澄創始の寺に恵みを垂れ給うように、と願った一首である。

大正十年、父・政次郎は盛岡高農研究生課程を終えた賢治を同行して関西各地を歴訪した。共に旅することで、賢治の改宗の心を引き戻そうとしたのかもしれない。しかし、肩を並べて参拝した延暦寺は、法華経にゆかり深い寺であった。この一首を伝教大師に捧げた賢治は、東京に下宿し、国柱会の街頭布教に参加していた。このころ、童話の創作活動も始まる。

その年の末、岩手に帰った賢治は、農学校教師として農業改革を指導し、エスペラント運動を推進するなど、幅広い業績を残した。しかし当時"国民病"と呼ばれた肺結核は、妹・トシに続いて賢治の若い命を奪った。

花巻市の宮沢賢治記念館によると、賢治を顕彰する記念碑は全国に百基近く存在する。しかし活動の幅広さのためか、歌碑は比較的少ないようだ。

道東・北海道美幌町の日蓮宗本妙寺にこの夏、北海道産日高石を用いた賢治の歌碑が建立された。昨年八月に第五世住職を引退した岡元錬城氏が、代替わりの記念に私費で建設した。碑面に刻まれているのは「塵点の劫をし過ぎていましこの妙のみ法にあひまつりしを」の一首である。

岡元氏によると、この歌は「雨ニモマケズ」の詩を記した手帳に挟まれた紙片に、鉛筆で書かれていた。その筆跡を忠実に拡大して刻んだという。

碑陰、つまり裏側には、岡元氏が撰した頌辞・建碑の辞が要旨次のように刻まれている。

「宮沢賢治先生は詩人、作家、教育者、科学者、農業技術実践者であられ、敬虔恭敬をきわめる仏教徒であり、熱誠あふれる法華経信奉者であられました。先生が衷心から望まれた『ほんとうの幸せ』『世界全体の幸福』への道が拓かれてゆくことを祈り、この碑を当山の浄域にお建ていたします」

寺離れ、仏教離れがうんぬんされる今、賢治の求道心の厳粛さ、純真さが注目される。「塵点の劫」の歌碑は日蓮宗総本山・身延山久遠寺の境内にも建てられている。