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出家は釈氏の養子

2010年10月23日付 中外日報(社説)

中国の三世紀、西晋の呉攻略のための前線基地である襄陽(湖北省襄樊市)の長官となった羊●(ようこ)は、敦厚な人柄が人々から慕われた。羊●の死後、襄陽の民衆は羊●が生前にしばしば遊んだ郊外の■山(けんざん)に碑を建て、それを目にする者は誰しも涙を流したため、その碑は「堕涙碑」と呼ばれた。

だが羊●の人生は必ずしも順風満帆ではなかった。『世説新語』術解篇に次の話がある。墓相見が羊●の父の墓を見て、「将来きっと受命の君を出すことになろう」と言った。受命の君とは天命を授かる天子のこと。もしそんな噂が立てば、時の天子からにらまれること必定、生命の危険すらある。

気味悪く思った羊●は墓所の後部を掘り崩し、そのような墓相を破壊した。だが墓相見は、「それでもきっと折臂(せっぴ)三公を出すことになろう」と言った。

折臂とは腕を折ること。果たして羊●は落馬して腕を折り、それから間もなく最高の位の三公の一つである太傅に栄進した。

ところで『晋書』羊●伝は、『世説新語』とはいささか異なって、墓相見が「若(も)し之れを鑿(うが)たば則ち後無からん(墓を掘り崩すならば跡継ぎがなくなるだろう)」と言い、そしてその後、墓相見の言葉通り「位は公に至るも子無き」ことになったと伝えている。

羊●の最大の不幸は、何よりも跡継ぎに恵まれないことであった。時の君主の西晋の武帝は、まず羊●の兄の子の曁(き)に、次いで曁の弟の伊(い)に跡継ぎとなるよう命じたものの、二人とも命令に従わなかったため免官の処分を受けることとなる。ところで二人のうちの羊伊が叔父の跡継ぎとなることを断わり、免官される事情の詳細は次のごときものであった。『隋書』誠節伝の劉子翊(りゅうしよく)伝が伝えるところである。

それによると、羊伊は実は羊●の生前に養子となっていたのだが、羊●が亡くなったにもかかわらず喪に服さなかった。そのため羊●の妻が異議申し立てを行なうと、羊伊はこう弁明した。

「叔父は生前に私を養ってくれ、私はあえて逆らいませんでした。だが父親の命令があったわけではなく、それで叔父の死後、生みの親のもとに引き揚げたのです」

これに対して尚書の彭権(ほうけん)なる者が「子の出養するは必ず父の命に由る。命無くして出ずる、是れを叛子と為す(子供が他家に養子として出るには、必ず父親の命令によらなければならぬ。命令もないのに他家に出るのは反逆児である)」と意見を開陳し、かくて羊伊は免官処分を受けたのだという。

「子の出養するは必ず父の命に由る」。そのアナロジーとして想起されるのは、仏教の沙門が出家する際には父母の許可が必要とされていることであって、『維摩経』弟子品に「父母聴(ゆる)さざれば出家するを得ず」との端的な言葉がある。

そして例えば五世紀北魏の玄高(げんこう)の話。玄高は一人の書生に連れられて山に入り、そのまま出家したく思ったものの、「父母の許しがなければ出家できぬ決まりである」と山僧は言い、かくて再び家に戻って父母を説得した上、ようやく願いがかなえられたのであった(『高僧伝』習禅篇)。

そもそも仏教の僧団は、すべての沙門が「釈」を姓としたことに示されるように、釈迦を尊長と仰ぐところの擬制家族なのではあるまいか。『高僧伝』義解篇の道安伝によく知られた記事がある。

「初め魏、晋時代の沙門は師匠の姓をそのまま姓とし、それ故、姓はそれぞれに異なったが、道安は偉大な師匠のそもそもとして釈迦より尊いものはないと考え、そこで釈を姓氏とすることとした」。道安は四世紀の高僧である。

このように考える時、出家とは父母の許しを得た上で釈氏の養子となることに例えられもするであろうか。

唐代の刑法集である『唐律』、その賊盗律に「出養」と「入道」とを一まとめにした条文が見いだされるのは示唆的である。出養とは他家の養子となること、入道とは出家者のことにほかならない。

●=示偏+古 ■=山偏+見