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朱子と官僚特権

2010年10月7日付 中外日報(社説)

三浦國雄氏の『朱子伝』(平凡社ライブラリー)を読んだ。朱子、すなわち南宋の朱熹(しゅき、一一三〇-一二〇〇)は、恐らく過去の中国が生んだ最大の哲学者であり、いわゆる朱子学が、中国本土はもとよりのこと、朝鮮や日本やベトナムなどの東アジア世界に与えた深甚な影響力は巨大なマグマにも例えられるであろう。

かくも偉大な朱子。だが三浦氏の著書はそのような朱子を聖化することを忌避し、矛盾を抱え込んだ一人の人間として描き上げることを抱負とする。今ここにその詳細を伝えることができないのは残念だが、いくらか同書の本題から外れるものの、次の事実を知って驚いた。

というのも、朱子は、二十二歳で泉州同安県主簿に就任してから、七十歳で退官するまでの四十八年間、一貫して官僚であり続けはしたものの、しかしそのうち外任(地方勤務)は合計九年、内任(中央勤務)はたったの四十日だけであり、それ以外の約四十年間は祠禄官(しろくかん)として過ごしたというのである。

祠禄官については、三浦氏の著書に「職務に従事せずとも給料がもらえる官」と簡単な説明があり、またやや詳しくは次のように説明されている。「名目上は各地の道観(道教の寺院)などの管理(提挙・主管)がその任務であるが、実際には任地に赴任せずとも俸給がもらえる、宋代に始まった官吏の優遇ポストである」

朱子は同安県の職務を離れると、早速に母親の奉養を理由に祠禄官を請求して認められたのをはじめとして、以後も再三にわたって祠禄官を得ているのであり、もっぱら家にあって読書と著述と弟子の教育に明け暮れるそのような自由な生活を保障したのは、「祠禄の官によるわずかな俸給と門生からの謝礼であった」という。

祠禄官は宋代に始まった制度であるが、それに先立つ時代にも祠禄官に似た制度がなかったわけではない。唐代の分司東都の官がそれである。分司東都の官とは、長安の中央政府のいわば出張所として、東都洛陽に設けられた分司東都台の役人のことであって、それは恩給暮らしとでもいうべき気楽な勤めであった。

この分司東都の官としての生活を存分に享受したのは、われわれにもなじみの深い中唐の詩人の白居易であった。前後合わせて三度にわたって分司東都の官を拝命した彼は、「禄俸は優饒(ゆうじょう)にして官は卑(いや)しからず、就中(なかんずく)閑適なるは是れ分司」(「閑適」)とか、「貧窮なれば心は苦しくして多く興無く、富貴なれば身は忙(あわた)だしくして自由ならず。唯だ分司の恰(あたか)も好き有り、閑遊 老ゆと雖も未だ休(や)む能(あた)わず」(「勉閑遊」)などと、そのありがたさを歌っている。

そして初めて分司東都の官を得た長慶四年(八二四)、五十三歳の時、ずばり「分司」と題した七言詩。

「散帙(さんちつ)の留司 殊(こと)に味わい有り、最も宜(よ)し拙を病む不才の身には。行香(こうこう)と拝表(はいひょう)とを公事と為し、碧洛(へきらく)と青嵩(せいすう)とを主人に当つ……」

「散帙」とは決まった職務のない閑な官位。「留司」は分司東都に同じ。「行香」は歴代の天子の忌日に寺院で行なわれる儀式。「拝表」は奏章を上(たてまつ)ることだが、白居易のまた別の詩に「一月一回同(とも)に拝表す」(「拝表早出贈皇甫賓客」)と歌われているように、どうやら一月に一度行なうだけでよかったらしい。

ともかく、職務といえば「行香」の儀式に参加することと一月に一度きり行なう「拝表」だけ、「碧洛」すなわちエメラルド色の水をたたえて流れる洛水と青々と天空にそびえる嵩山とがここ洛陽の主人公というわけである。

今日の年金生活者にとっては夢のような何とも大様な制度。だが祠禄官にせよ分司東都の官にせよ、それらは旧中国社会のごく一握りの士大夫官僚のみが享受できる特権にしかすぎなかった。白居易の詩や朱子の哲学にそうした特権享受の生活背景があったことは覚えておいていいかもしれない。