ニュース画像
「誠」の隊旗を掲げた五重塔院で営まれた法要
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

天皇に「原爆」を問うた記者逝く

2010年10月2日付 中外日報(社説)

その一瞬、思わず顔をこわばらせた人もいたのではないか。昭和五十年十月三十一日、皇居「石橋の間」で行なわれた、昭和天皇、香淳皇后と日本記者クラブとの記者会見の席である。当時、中国放送(本社・広島市)の東京支社勤務だった秋信利彦放送記者は「関連質問」の段階で挙手し、昭和天皇に要旨次のように質問した。

「戦争終結に当たって、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか」

このような質問が出ることは、宮内庁に予告されていなかった。各紙の報道によると、天皇は要旨次のように答えられたという。

「(原爆投下は)遺憾には思うが、戦争中のことであり、広島市民には気の毒であるが、やむを得ないことと思う」

平成十三年、常務を最後に中国放送を退社していた秋信氏を訪ねた時、同氏は筆者に、その時のことを次のように語った。

「広島の記者として、もう少し別の言葉で質問するつもりだったが、あのような表現になった。日本の記者が、被爆に触れないわけにはいかない。原爆をタブーにしてはならないという思いだった」

「広島の記者」の最大の課題は、原爆関連の報道である。秋信氏は、中国新聞(本社・広島市)の故・大牟田稔記者と協力して、その時まで十余年間、被爆者援護問題の取材に当たってきた。昭和天皇への質問はそうした取材経験とは無縁ではない。取材の中心は小頭症児問題だった。

母親の胎内にいる時に被爆すると、脳の発達が妨げられ、頭が小さくて知覚障害を持つ子が生まれることがある。広島では、そのような小頭症児が数十人生まれたと推定される。

昭和三十年代後半の厚生省(当時)は「小頭症は治療を必要とする病気ではない」として、援護の対象としていなかった。秋信氏と大牟田氏は、電波と新聞の両面から援護を求める論陣を張った。約二年後、小頭症は「近距離早期胎内被爆症候群」と認定され、国から「小頭児手当」が支給されることになった。その経過は平成十三年十二月六日付本欄で紹介した。

この間に両氏は、個人の名を挙げる報道をしなかった。それまでの広島の報道姿勢は「どこそこの家に、原爆後遺症とけなげに闘う人がいる」と、個人を対象にしていた。個人報道はややもすると、センセーショナルな特ダネとなり、カンパが寄せられる。だが、後に好ましくない"副作用"を残しがちだ。

だから両氏は、そのような"個の取材"をせず、全体的な視点からの、地味だが着実な報道に徹した。霞ヶ関の官僚は、そのような理詰めの報道を評価する傾向がある。「手当」の支給が決まったことで、身内に小頭症児がいるとの報告が相次いだ。

両氏は、小頭症児とその家族に「きのこ会」を結成させて、相談役を引き受けた。他社の記者仲間から取材の相談を受けると、事情を話し、極力"個の取材"を控えてもらった。

大牟田氏は生前「他社に特ダネを書くなという以上は、私自身も特ダネ報道はできません。だが、それでよかったと思います」と語った。被爆者関連報道で、プライバシーが尊重されるようになったきっかけの一つが「きのこ会」報道にあるとの見方もある。

中国新聞社論説主幹、広島平和文化センター理事長を歴任した大牟田氏が平成十三年に、七十一歳で死去した後、秋信氏はただ一人「きのこ会」相談役にとどまり、小頭症児たちが還暦を過ぎて生き抜く様子を見守ったが、九月十五日、七十五歳で大牟田氏の後を追った。特ダネを報道しないという記者道を貫いた両氏は今"倶会一処"の境地にあるのだろう。

皇族の記者会見の場で、原爆にかかわる質問は、秋信氏以後は出ていない。