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登山客殺到の富士

2010年9月28日付 中外日報(社説)

過ぎ去った今年の夏――猛烈な暑さのためであろう、富士山が超人気スポットだった。

別に富士山に登るのでもなく、漠然と五合目辺りは涼しいに違いない、と涼を求めて車でやって来たのはいいが、駐車スペースが狭小で、やむなくそのままUターンしたという人たちも多かったらしい。むろん、頂上を目指す登山も例年に比して多かった。七月の山開きから八月三十一日までのシーズンに、山梨県側から約二十六万人が登り、静岡県側からも十四万人以上が登ったという。

猛暑・酷暑の下界からひとときでも逃れたいという思いは誰しも同じで、こんな結果になったのだ。それ自体、善しあしの問題ではない。実は筆者もシーズンの終わった九月初旬の平日に富士山に登り、いささか感ずるところもあったので、それについて述べてみたい。

私事で恐縮だが、趣味の一つに夏山登山がある。毎年とはいかないけれど、夏に安曇野の友人たちと北アルプスに登るのを楽しみにしている。が、富士山については、「下から仰ぎ見るだけでいい」と公言し、たとい誘われても登らないと心に決めていた。

その理由は簡単明瞭、シーズン時のあの数珠つなぎの列だ。そんな写真やニュース映像を見るたびに思うことは、人のお尻ばかり見て登るなんぞ面白くもなんともない。それに、前の人が一歩登れば自分も一歩足を出すなんて、想像しただけでゾッとするではないか。聞けば、この夏は一日平均五千人・一日最多は一万五千人が登ったというから、ゾッとするより頭がクラクラしてくる。

ただ今回、登る日程については筆者の都合に合わせる、という上等なお誘いに乗って出掛けた日は、なんと登山者数が千五、六百人という閑散日で、かつ快晴にして爽やかな風が吹き渡っていた。御来光を拝み、影富士をも見て、ほぼ完璧に近い一生に一度の富士登山だった。

でも、こんな日は珍しいのだろう。普通は、一日平均五千人が詰め掛けるというのだ。そんな大勢が一度に登れば、いくら雄大な山とはいえ、問題がないとはいえまい。

経済ということだけに絞れば、一シーズン二十六万といわず、あと五万、いや十万上乗せして登山客が増えれば、地元も富士登山にかかわっている人たちも、何かと潤うわけだ。

その点、一日一万五千人という大混雑も、歓迎すべき賑わいなのだろう。一日の登山者千五百人のその日、私たちのガイドはすれ違う同業者に、しばしば「今日の富士山は寂しいね」と声を掛けていたのが印象的だ。

しかし、何事にも容量というものがあるだろう。筆者は寡聞にして知らないだけで、登山制限の議論がすでにあるのかもしれないが、富士山登山も、その上限を決める時期に来ているのではないかと感ずる。

私たちの社会は一体に、いまだに質より量だ。文化催事もその多くが質より量によって評価される傾向にあり、展覧会はとかく観覧者数が話題になる。やや少ないが、その一人一人に深い感動を与える静かな催事より、一度に多くの人が押し寄せる方がなんとなく良さそうだ。と、ばかりに皆がはせ参ずるから、結果、大混雑の中での鑑賞になってしまう。

短い会期に多くの人々が静かに鑑賞するのは二律背反で、さりとて、会期の延長もままならない。展覧会は近年、会期がやや延びる傾向にあるが、この点、自然の中の富士山は困難で、短いシーズンにドッと押し寄せてしまうという、やむを得ない面もある。

しかし、上限の設定は、やってやれないことではない。現にブータン王国が一年間のトレッキングツアーを制限している。などといえば、それは国柄も政治体制も違うからできるのだという議論になってしまうのだけれど、そうではなく、富士山なら富士山の質なるものをどこまで担保するのか、という哲学のハナシであろう。果たしてそれができるのかどうか、一度考えてみても良いのではないか。