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いのちの多様性とは―地球生きもの会議

2010年9月25日付 中外日報(社説)

生物多様性条約第十回締約国会議(地球生きもの会議)が十月に名古屋で開かれる。例によって資源産出国と先進国との経済利害対立が懸念されている。

生物の多様性は、種の多様性、同一種の中の個、集団の多様性、そしていろんな種や集団からなる生態系の多様性と、多層的にとらえられ、生態系は多くの種を含むほど環境変動にも抵抗力が強く、生産力も高いという。これには動物だけでなく植物も含まれ、いわゆる食物連鎖、エネルギー循環などを思い浮かべると理解しやすい。

生態系のバランスが崩れる、あるいは人間がこれを破壊すると、特定の種が絶滅したり、異常に増殖し、自然の恵みが失われる。例えば食糧危機や疫病、生活のいろんな資材や酸素をも供給する森林の枯渇などを想起すると、それが人類全体の生命線にかかわる重大事だということが分かる。

一億年もこの地上に君臨した恐竜はあっけなく滅びたが、現在は、かの時代の数千万倍の速度で、年間四万種の生物が絶滅しているといわれる。

だが絶滅危惧種だけが貴重なのではなく、すべての種が対等であり、多様なこと自体が重要なのだ。仏教をはじめ多くの宗教も、生き物はすべて平等という認識に立つが、それを人間の都合、経済的な目的などで操作すると歪みが生じるのである。

近年の重要な事例としてミツバチの全国的激減現象がある。果樹園などで授粉や蜜採取のために働かせるセイヨウミツバチの大量死や失踪が広がり、これは米国でも問題になっていた。

セイヨウミツバチは授粉作業などに都合のいい品種だけを選び出して作った、生き物でありながら「道具」としての種類であり、激減の直接的原因は不明だが、均一品種であるがゆえに何かの原因で全滅状態になったと考えられている。ちなみに、和蜂など野生のハチにはこの激減現象は見られなかった。

世界的バイオ企業が収益性のみを追求し、遺伝子組み換えなどバイオテクノロジーで作った農作物のタネも、工場製品のように極めて均一なため、病虫害や気候変化で世界的に一気に絶滅してしまう恐れがある。

十九世紀のアイルランドでは、同一種のジャガイモばかりを栽培していたため病原菌発生で壊滅し多くの餓死者が出たし、ブラジルのカカオ産業はカビで全滅状態になった。

ここで大事なのは、「ちょっと違う」こと。進化の過程で、少しずつ変化し「ちょっと変わった」ものができる、あるいは突然変異で「変わりもの」ができる、それは種の生存にとって非常に大事なことだ。

均一でないことで、環境が変化して従来の大多数が滅びても、「変わりもの」が生き延び、種が残る。多様性によって全滅が回避され、自然淘汰で新たなものに進化するのだ。

だが進化論で言う「適者生存」は、生き残ったものが「高等」で「優秀」だというわけでは決してなく、変化する環境にたまたま適応できたということだ。

このような不思議で絶妙な自然の仕組みは、科学によってある程度解明されたが、その根本的な原理、あるいは「なぜそうなのか」は科学では説明できない。それを人類は、人智超えた「神の業」「超自然的な力」と見なし、歴史的にはそこに宗教性が存在した。

ミツバチなどの例の教訓は、人間にとって都合の良いものばかり追求すると、その弊害は必ず人間に返されるということだ。宗教は本来、このような「天罰」を脅威とすることで、分をわきまえず環境を破壊する人間を戒める役割を担ってきたのではなかったか。

「利用価値」を基準にした選別は、他ならぬ人間自身に対しても行なわれる。いかに役立つか、現代社会なら「儲けるか」が人間の価値基準となり、儲ける人は「勝ち組」、そうでない人は落伍者とされる。

もっと言えば、「役に立つ」ことが一様に人間存在の条件になる。「ただ生きている」「呼吸はしているが意識も判断力もない」のは「死んだも同然」、つまり人間ではないとさえされてしまう。最も身近で深刻な「いのち」の課題である「尊厳死」や臓器移植目的の「脳死」には、そのような問題が潜んでいる。

それは決して「死」に近接した選別だけではなく、ヒトとして生まれる前、つまり受精卵や胎児の段階から、「生まれてほしくない命」を選別する出生前診断なども同じことである。

誰もが、それぞれに違い、そこにいることで何らの役立ちをも強制されず、まずは「生きて」いられる。宗教者が「多様ないのち」を語る時、やはりそのことが出発点ではないだろうか。