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本当に必要な物は決して多くはない

2010年9月7日付 中外日報(社説)

NHKの朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」が人気を呼んでいる。話は長々と続いた貧乏物語から鮮やかな成功物語に変わって、舞台になった調布を訪れる人も少なくないそうだ。これとは別に「漫画家夫婦の旅路」という、水木家のインタビュー番組があった。そこで水木しげるさんが面白いことを言っていた。収入が倍になったからといって幸せも倍増するとはいえない。それまで二つだった大福もちが四つ食べられるわけではない、せいぜい三つだ、とおっしゃる。さすが漫画家だけあって笑わせるのがうまい。

この話がおかしいだけではなく含蓄深いというのは、幸福の度合いを測る基準が、身体は何をどれだけ必要としているかというところに置かれているからである。

もしある人が幸福の度合いを資産の額で測ったとしたら、資産の額に比例して――心労や面倒は増えるとしても――幸福感も増すかもしれないが、資産には限度がないから、いつまでも満足はないともいえる。幸福の度合いを邸宅や地所で測ったら、邸宅の広さ、立派さ、家具調度の贅沢さには、限度があるといってもないに等しかろう。衣服や装飾品についても同様である。"身体"そのものを尺度とするから限度が分かるのだ。

トルストイの寓話にこういうものがある。

あるロシア人がモンゴルの長者から土地を買った。金を受け取った長者はロシア人を広大な平原に連れて行き、日の出から日の入りまで歩いて囲んだ土地はすべてあなたの物だ、ただし、日没までに出発点に帰り着かなければ、すべては無効になる、と言った。

ロシア人は日の出とともに歩き出し、肥えて豊かな土地欲しさに休むこともなく、飲食のために腰を下ろすこともなく、ただひたすら歩き続けた。もう充分だから戻ろうと思っても、いやいやこんな素敵な土地を手に入れないわけにはいかないと歩き続けて、ふと気が付くと、草原の彼方に日が傾いている。

驚いた彼は出発点に向けて走り出した。苦しくても、腹が痛んでも、のどが渇いても、目がくらんでも、無理に無理を重ねて走り続け、日没と同時に出発点にたどり着いた。そこにはモンゴルの長者が待っていて、高笑いしながら、いやお見事、お見事、この広大な土地は皆あなたの物ですぞと言った。ところがロシア人はばったり倒れて死んでしまったのである。

長者はちょうどロシア人の体が入るだけの穴を掘って埋葬してやったという。結局彼に必要なのはそれだけの広さの土地だったというわけである。

ここまで筆者が"身体"と言ってきたのは、単なる肉体のことではなく、心身の統一体としての身体のことである。このような身体としての人間がいるということは、当然その人に両親がいるということであり、つまりは家族生活があるということである。それだけではない。身体としての人は、生きるために協力して働かなければならないから、そこには社会生活があり、それは経済にも政治にも文化にも連なっている。

つまり身体としての人間は人間生活の全体を含意しているわけであるが、さて、身体は最低限何をどれだけ必要としているのだろうか、ということを突き詰めて問題にすれば、本当に必要な物は多くはない。ある経済史家が、もしわれわれが生活を江戸時代の庶民の水準にまで下げれば年収数万円で足りるといったのを聞いたことがある。むろんこれは仮定の話で、実際にできることではないが、われわれはことほどさように贅沢をしているということだ。

不景気が長引いて内需の喚起が叫ばれている。しかし消費者は一向に財布のひもを緩めない。当然のことだろう。かつての経済成長のころはともかくとして、土地バブルの時は多くの人が景気に煽られて無駄な買い物に走った。不動産に手を出して大損した人は少なくない。あの時どんなに高い物を買わされていたか、消費者は身に染みて知っている。

それだけではない。消費者はすでにそこそこ必要な物を持っているのである。今、企業があの手この手で購買欲を煽り立てても、消費者は企業の業績を上げてやるために無駄な買い物をするほど甘くはない。購買欲の低下は消費者の知恵だといえる。

新約聖書には「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに心を労しすぎる。(本当に)必要なものは(ただの)一つにすぎない」(ルカ一〇:四一~四二)というイエスの言葉がある。これは現代人に欠けているものを言い当てているのではなかろうか。