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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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絶縁社会を超え"絆"の再構築を

2010年9月4日付 中外日報(社説)

先に社説で取り上げた所在不明問題は、社会での高齢者の寄る辺ない実態をあぶり出しつつ、新たな展開を見せている。

老いた親が「家出」しても「どこへ行ったか知らない」と十年以上も放置する。母親の白骨遺体を生活苦の息子が自宅に隠していた事件。そしてこの猛暑に、電気代が払えずエアコンをつけられぬほど困窮し、近所からも孤絶した高齢者が熱中症で次々と亡くなった。

二〇〇三年に全欧を襲った猛暑で、同様に一人暮らしの高齢者を中心に一万五千人もの死者が出たフランスでは様々な行政施策が出されたが、弱者が安心して暮らし、助けを求められる「連帯と敬意」の社会こそが必要だと、当時のシラク大統領は訴えた。日本でも社会のセーフティーネットが崩壊し、誰もが孤立無援になり得る現況は深刻だ。

高齢者不明と前後して世間を揺るがせた虐待死問題も、同じことが言える。いたいけな幼児を監禁して衰弱死させるような行為の罪は極めて重いが、背景には、あまりにも無知で力不足の若い親たちを助け、ある時は叱り、支える周囲の「人の輪」が機能していないことが指摘されている。

虐待された経験のある子が、その傷を癒やす成育環境に置かれないまま成人し暴力を繰り返す、「虐待の連鎖」。生活に困り孤立した母親が、抱えたストレスを子供にぶつけ、あるいは育児に疲れても、身近な相談者も助ける人もいない。

経済格差による生活苦もあって若者の非婚率は上昇しており、将来「孤立死」予備軍が激増するとの予測や、年間千人近くに上る「行旅死亡人」問題も含め「無縁社会」といわれる。

だが最初から一切の縁が無い人など誰もいない。結果を突き放して表現するのではなく、その仕組みと原因、つまり、個人がやむを得ず自ら縁を絶ったり、社会が個人を切り捨てていく構造を見据えて、「絶縁社会」と表現すべきだろう。

かつてあった「血縁」「地縁」そして「友人縁」。読売新聞社の世論調査では、「家族の絆」「地域住民の支え合い」が「弱くなってきている」との回答が、いずれも80%前後に上ったという。

人は、人と、あるいは社会との縁が途絶えると、絶望的に破滅に向かうことがある。東京・秋葉原の無差別殺傷事件は、派遣職場を転々とし、周囲に背を向けインターネットの世界に没入して現実社会との接点を失った若者が、「唯一のつながり、心休まる居場所」と感じていたネットの掲示板を荒らされ凶行に走った。

理不尽に多くの命を奪ったこの事件は、いかに弁明しても決して許されないと同時に、「絶縁社会」の極めて歪んだ鏡像でもある。

だが、先日の公判での尋問で、被告は「今考えると(ネットよりも)現実の方が大切なものがたくさんあったし、居場所もあったと思える」と語った。

報道では、何度も自殺を図った被告は事件の半年前に秋葉原駅で投身を考えた。警官に職務質問を受けて打ち明けると、「お前は頑張り過ぎだ。力を抜け」と諭され思いとどまったという。

その際、車を停めていた駐車場の代金が払えず、管理人から「待ってやるから」と言われたことで、「急に前向きになり、料金を返すことを生きる目的にした」と供述している。そんな「縁」でさえ、少しは破滅へのブレーキになり得たのだ。

世間からはじき出され、引きこもって絶縁状態になった「負け組」の自分が、「勝ち組」がのさばる社会をリセットして消してしまおうと無差別殺人を犯す。そのいわば裏返しとして、自分の方をこの世から消してしまうのが自殺、自死だ。

自殺者が年間三万人を超える事態が十年以上も続く。厚労省が遺族や未遂者計千七百人を対象に調査した結果では、自殺を図った人の80%が、悩み、苦しみを事前にどこにも相談していなかった。ここにも、思い詰めた人がそれを打ち明けることさえできないまでに絆がずたずたになった絶縁社会が広がっている。

高齢者福祉でも虐待防止でも、行政や民間の機関やサービスは様々にある。しかし、底辺まで落ち込み本当に困窮した人々には、あちこちに目的別に分散した多くの窓口を探し、回る余裕さえない。一ヵ所へ取りあえず駆け込めば、そこで支援するか、関係の相談先につないでくれるような「よろず相談窓口」、ワンストップ・サービスの必要性が高まっている。

それに、寺や教会という「場」、あるいは地域や人脈、教団というネットワークを持つ宗教者が関わることは極めて有効なはずだ。

高齢者問題では、自ら「迷惑をかけたくない」「お荷物になりたくない」と縁を絶ち、孤立する傾向が顕著だ。だが、人の生涯で他人の世話にならず、迷惑もかけないということなどあり得ない。そんな息の詰まる「絶縁社会」は不幸だ。

「迷惑をかけてすみません」ではなく、「お世話になり、ありがとう」と誰もが安心して言える、「結縁」の社会でありたいものだ。