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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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以大扶小の精神

2010年8月31日付 中外日報(社説)

京都の五山送り火は祖霊を送る宗教行事だが、地元の住民らによって護持され、毎年続けられている様子がテレビでも紹介された。このような伝統が守られているという事実は素晴らしいが、それにあらためて感動させられること自体、地域社会の一員としてのわれわれの意識がすっかり変質してしまった現実を思い知らされる。

オウム真理教事件をはじめ、幾つかの宗教が社会的な問題、事件にかかわり、その反社会性をマスメディアで糾弾されたこともあって、「宗教」に対する一般の人々の見方がずいぶん変わってきた。いや、これは事件があったから、というだけではなく、もっと根本的な社会の変化の一つの表われでもあるだろう。

伝統的な宗教行事も、それを支える地域社会や家族、親族のつながりがすっかり緩んだ結果、それに参加する内的必然性は見失われ、忌避する感覚を抑えるものはなくなる。

例えば「葬儀」は雑誌、テレビなどのメディアにかかれば、今や経済の話題である。特集で「葬儀」を扱えば、売れない雑誌もそれなりの部数は期待できる。イオンの進出など、これからは業界変動の話題性にも事欠かない。"成長産業"とはいえ、過当競争でつぶれてゆく葬儀社がそのうち出てくるだろう。ビジネス誌の好餌である。

いずれにせよ、目安と称して表示されるお布施の額などを見ていたら、葬式は単に金のかかる儀式で、できるだけ安く済ませておくのが利口だ、という発想になるのは当然であろう。亡き人への追悼はそれぞれの個人の問題となり、社会的儀礼の性格は薄れる一方。親しかった人が死んだのに、葬儀の連絡もくれなかったという嘆きはよく聞くが、生前ずいぶん活躍し、多くの人と交流があったろうに、と思われる人の葬儀が、家族葬に毛が生えた程度の寂しさであるのを見ると、故人に対してひどく残酷な気がする。

ところで、先にお布施の目安表について触れたが、こうした法要の形骸化は僧侶の側にも当然責任がある。

かつてある有名な僧侶が、「今日の葬儀は、非常に経済的に恵まれていない人なので、だからこそ自分が行かなければならない」と言って葬儀に出向いたことがあった。仏教界の重鎮として、重要な会合に出席しなければならなかったのに、葬儀への出席を優先したのである。しかし、それは口に出して語るべきではないことだった。

親しい僧に聞けば、多くの人がそのような経験を持っているに違いない。中には、葬儀料が用意できないような人々にこそ積極的に対応した僧も居た。仏教界には昔から、「以大扶小」といって、経済的余裕がある人には相応の布施をしていただくが、余裕のない方には寺が奉仕するという習わしがあったという。

人間社会は一定のシステムで動いていくことが重要である。だが、とことんまで突き詰めると、「システムを超えた、人間性や慈悲に裏打ちされた行為」こそが輝きを放つ。ところが、今の社会は全体として見れば「以大扶小」の精神を陰徳として実践する余裕を失ったようだ。

ぎくしゃくした余裕のない社会でも、せめて僧侶の世界だけはかくあってほしい、と願うのだが、現実にはどうだろうか。逆に営利目的の業者やメディアが布施の目安表を表示するのを正当化させるような情けない話も少なくないのは誠に残念である。