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「ゆるキャラ」のブームと宗教界

2010年8月26日付 中外日報(社説)

平成十九年の「国宝・彦根城築城四百年祭」のマスコット・キャラクター「ひこにゃん」の成功以来、その手のキャラクターは、もはや催事にはなくてはならないものとなった。現在進行中の「平城遷都千三百年祭」もまた、話題の「せんとくん」である。

こうしたいわゆる「ゆるキャラ」の注目度は、下手なタレントなぞ、その足元に遠く及ばない。ゆるキャラが歩けば、どこもかしこも黒山の人だかりである。

そんなゆるキャラブームは宗教界にも押し寄せ、今年、「なむちゃん」「鸞恩くん」「蓮ちゃん」など、次々に新しいマスコット・キャラクターが誕生している。

そうした動きは総じて、寺院の堅苦しいイメージを取り除きたいという期待感や、仏教への関心が加速度的に薄れているという危機感から生まれており、まずは、その成功を心から祈りたいと思う。

しかし、ゆるキャラがあれば、堅いイメージが払拭され、楽しい雰囲気が醸し出されるというだけで、そうしたブームに乗るのは、あまりにも漫然としており、それだけでは、もろ手を挙げて賛成しかねる。

確かに、かわいらしいマスコットが歩けば、その辺りの雰囲気は和らぐに違いない。が、それだけで果たして、寺院への親近感が本当に増大するのだろうか。あるいは、仏教への関心を呼び起こすことができるのだろうか。筆者は、いささか疑問である。

百歩譲って、ゆるキャラを採用しよう。そして、それが功を奏して、仏教を見向きもしなかった人々が幸いにも、ちょっと振り向いてくれた、としよう。

それで、その後、どうするのか。次の手だては、どうなっているのか聞きたい。仏教は元来、「人生は苦だ」と説く。それはどうしても堅苦しく、そして、重いことだ。そのことを、ゆるキャラという入り口から入ってきた人たちに、どの段階でどのように説くのか。

仏教は、真実と方便だといわれる。つまり、真実に近づくために、さまざまな方便(手だて)が施される。法華経などに多用される喩えも、その一つだ。そうした手だてを手掛かりにして、求めるべき真実をたぐり寄せる。そういう真実と方便が、仏教の王道であろう。

だから、方便としてのゆるキャラは、何ら問題ではない。ブームに便乗しているという非難は、言わせておけばいい。問題は、その次の手だてが、ゆるキャラ採用と同時にすでに検討されているのか、ということなのだ。この点、筆者は寡聞にして知らない。

それというのも、いわゆるゆるキャラのイメージと、仏教が本来、人々に伝えようとしている教説のイメージとが、あまりにも乖離していて、ゆるキャラが果たして、真実に対する方便として採用してよいものなのかどうか、もう一度、検討し直すべきではないか、と考えているからである。

人生はそもそも、難しいものだ。むろん、私たちの気持としては、好都合の連続で、楽しく軽やかな人生でありたい。しかし、現実は、そういうわけにはいかない。日々不都合に耐え、重い事柄を背負ってもいかなければならないのが人生だ。

そして、そのことを、誰はばかることなくきちんと指摘していくのが、宗教の仕事ではないのか。私たちの社会が昨今、すべての面で「ゆる~い」状況に陥っておれば、宗教のこうした役割は、相対的にむしろ増大しているといえるのではないか。仏教界がブームに煽られて、自らゆる~い方向を目指してはいけない。

いずれにせよ、ゆるキャラという入り口から仏教の世界に入ってくる人々に対する、次の方便が考慮されていないのであれば、ゆるキャラ採用は、スタンドプレーというほかない。そんなスタンドプレーはもういい。いかに堅苦しいと思われようが、仏教者が真摯にその王道を歩く限り、仏教は滅びない。その確信こそが、日本仏教の低迷を救うはずである。