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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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超高齢化社会日本の公共的課題と宗教者

2010年8月21日付 中外日報(社説)

「まさか、そんなことが?」という驚きがほとんどの人の反応ではないだろうか。「長寿大国」日本で、百歳を超えるとされてきた高齢者の多くが所在不明であったり、実はすでに死亡していたという事実が次々と発覚している。

十日現在の報道によると、例えば神戸だけで百歳以上の高齢者百五人の所在が不明という。今さら何を、と言うしかない。むろん「百歳以上」に限った話ではあるまい。お役所仕事の体たらくには開いた口がふさがらない。

問題が大きく浮上したのは七月から八月にかけて、まさにお盆の最中であったのは、仏教徒にとって気になる偶然だ。中国成立の偽経とされる仏説盂蘭盆経だが、目連尊者の話は人間性の中に深く根差している。戸籍上は生かされたまま、供養されることもない死者の存在は、時節柄、目連尊者と母の話も想起させ、私たちがどんな時代に生きているかをあらためて思い知らせた。

旧来の地域社会が崩壊し、家族・親族のきずなが弱まる一方で、バラバラにされた個人が、それぞれ新たなつながり方を何とか見いだそうとしていることは、ケータイやインターネット社会が象徴するところだ。しかし、高齢者をはじめとした弱者は新たな安住の場所を持たず、中でも恵まれない人々は姥捨山ならぬ都会の雑踏の中に遺棄されているかの感がある。

そうした人々の心の空白を思えば、モノが溢れ、金さえあれば欲望を直ちに満たすことができる現代も、末法の相を示した戦乱・飢饉の中世末とさほどの懸隔はない、と言いたくなる。

明治以後、特に戦後、日本人の平均寿命は急速に延び、社会の高齢化は著しく進んでいる。だが、社会のシステムはそれにまったく追い付けていない。

高齢者所在不明問題では、行政が実態を把握できないまま、年金などを支給し続けていたことが批判されている。高齢化社会を支えるはずの年金の制度的不具合は不安をかき立てる。行政が高齢者を守るための公的機能を充分に発揮し得ていないのは確かだ。

しかし、高齢者問題はすべて「お上まかせ」で済むことでは決してない。市民一人一人が、行政の限界を超えた、社会全体にかかわる事柄としてもっと明確に意識すべきだ。

鳩山由紀夫総理時代に発足した内閣府の懇談会に「新しい公共」円卓会議というものがあり、鳩山内閣総辞職、菅直人総理選出の六月四日という微妙な日付で「『新しい公共』宣言」を発表している。

「公共」というと公益法人制度改革などの焦点となる「公益」とも関係してきて、国家がそれを過度に強調することには警戒する向きもないではない。しかし、公益法人制度改革のうたい文句だった「民の担う公共」という理念に沿って、「古くからの日本の地域や民間の中にあったが、今や失われつつある『公共』を現代にふさわしい形で再編集し、人や地域の絆を作り直す」(「新しい公共」宣言)とする提言は、その趣旨の積極的な意義を考えるべきである。

そこには阪神・淡路大震災におけるボランティア活動や京都町衆の「番組」という自治組織、本紙社説でも取り上げた雑誌『ビッグイシュー』と共に、徳島県上勝町の高齢者によるコミュニティ・ビジネスなども「新しい公共」の想定する「協働」の事例として示されている。

何も時の政権の提唱に呼応して、宗教がかつて有していた公的地位を回復しよう、などと主張したいわけではない。ただ、もしそれぞれの教義・宗旨がこのような「協働」に親和性を持つなら、それを意識し、高齢化社会の公共的課題を念頭に置いた活動を展開することは宗教団体にとっても大きな意味があるはずだ。

いずれにせよ、百歳以上のお年寄りの所在不明問題が象徴的に示すように、超高齢化した日本社会の現実はどこか末世的とも言いたくなる深刻な様相を呈している。宗教者としては宗教的な救いの道に導くため、身近な地域社会にしっかり立脚した宗教活動に力を注ぐべき時だろう。今の世相に敏感な「葬儀不要」論をはじめとした、寺院に対する社会的な風当たりの強さに意気阻喪している場合ではない。