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素朴な信仰心が脱ダムの原点に

2010年7月29日付 中外日報(社説)

「全国でダム建設を見直す動きが活発です。熊本県では五木村を水没させる川辺川ダム計画が中止されました。国土交通省の有識者会議も見直し提言をしました。その原動力は約五十年前、下筌(しもうけ)ダム建設反対に立ち上がった私たちの"蜂之巣城"の闘いにあったと思います」と語るのは、くまもと地域自治体研究所理事長の森武氏(81)である。

昭和二十八年六月下旬、北九州に記録的な豪雨があり、大被害をもたらした。死者・行方不明千一人、被災者数は約百万人。特に筑後川の水源に当たる熊本県小国町では、二ヵ所で一日降雨量約一、〇〇〇ミリを観測した。建設省九州地方建設局=当時=は、筑後川を中心に治水対策の見直しを迫られた。

「防災にはダム建設」が当時の常識だった。建設候補地は政治的な動きも絡んで下流から上流へ次々に変更され、最終的に支流の大山川(大分県大山村=現・日田市)に松原ダム、そのまた支流の津江川(熊本県小国町)に下筌ダムを造ることが決まった。昭和三十二年八月である。

支流の支流にダムを造っても、効果は知れている。しかも下筌ダムが実現すれば、二十一集落の三百二十五戸、十四の神社や寺院をはじめ、広大な山林や農地が水没する。住民が「守れ墳墓の地」のスローガンを掲げて立ち上がったのは当然だった。

しかし当時は「公共のため」の事業は、国や地方自治体の意のままに工事が進むことが慣例化していた。容易な闘争ではない。住民はリーダーに、地元の名望家・室原知幸氏(一八九九-一九七〇)を選んだ。早稲田大学専門部に学び、町議会議員や町公安委員を歴任した人物である。

室原氏は実力による阻止行動と共に仮処分申請、民事訴訟、行政訴訟などの法廷闘争を進めた。だが国側は昭和三十五年六月、住民の抵抗を排除して、測量隊を送り込もうとする。「それを阻止するために、私が考え出した戦術が"蜂之巣城"でした」と森理事長は言う。森氏は当時、室原氏側弁護士の秘書役として、現地に常駐していた。

時代劇映画の題名を借りた"蜂之巣城"は測量地点に人が居住できる小屋を建て、電灯や電話を引き、住宅として登記したものだ。土地収用法では、測量や試掘のために住宅を取り壊すことはできない。

この作戦はかなり功を奏したが、国側は本工事の段階で"蜂之巣城"を取り壊して着工した。第二次、第三次と同じような砦が造られた。労組の代表が援軍として籠城したこともあり、闘争は昭和三十九年、東京五輪の年まで続いた。

下筌ダムは結局、昭和四十八年に完成した。住民は、かねて町内に準備していた新しい居住地に、集団で移住した。ダムに沈む村では、補償金を受け取ったら散り散りに移転する例が多いが、下筌では従前の村落共同体がそのまま存続した。国は国費で新居住地を整地するという異例の措置をした。地区ぐるみ闘争の成果であろう。

森氏は言う。「私は六年間、現地に駐在したが、大伽藍や大社殿も無ければ、派手な祭礼を見ることも無かった。でも住民の心には墳墓の地を尊重する心が定着していたようだ。今も住民が時々、ダム湖岸に集まるのは、みんなで先祖供養をしているのだろう」

"蜂之巣城"以後も多くのダムが建設されたが「ダムはゼネコンを潤すだけで治水には役立たない。ダムで栄えた村は無いし、分担金は地方財政に重くのしかかることが分かって"脱ダム"の機運が高まった。下筌の素朴な宗教心が起こした闘いが半世紀後の今、日本の"ダム信仰"を変えたのです」と語る森氏はこのほど、当時の記録を『脱ダム、ここに始まる』=発売・創流出版=の一冊にまとめた。ダム問題に示唆するところが多い。