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被包括関係を国法で規定すべきなのか?

2010年7月17日付 中外日報(社説)

宗門がしばしば直面する問題に、末寺の宗派離脱がある。戦後一時期、大都市寺院の宗派離脱が相次ぎ、単立寺院の連合組織もできて一定の存在感を示した。近年も原因はさまざまだが宗派離脱が話題になる。

宗教法人法第二六条には次のような規定が設けられている。被包括関係の廃止をしようとするとき、「当該宗教法人を包括する宗教団体が一定の権限を有する旨の定がある場合でも、その権限に関する規則の規定によることを要しない」(第一項)、つまり宗教法人法の定める手続きさえ満たせば、たとえ包括法人の規則に違背する事実があっても、合法的に宗派を離脱できる、ということだ。

また、第七八条は「被包括関係の廃止を防ぐことを目的として、又はこれを企てたことを理由として」、被包括関係廃止の通知前または通知後二年間は当該宗教法人の役員等に不利益の取り扱いをすることを包括法人に禁じている。

これは各種の解説書が説くように、本来は信教の自由の原則に基づくものであり、一般にも何となくそのように理解されることが多い。ただし、現実には信教の自由を理由としない事案にも適用される。なぜか。

所轄庁が被包括関係廃止の適否に立ち入り、信教の自由に反するかどうかを判断することは、「当該宗教法人の信教の自由を阻害するおそれがあり、法の採らないところである」(文部大臣裁決、昭和四十年)というのがその理由だ。政教分離の原則に基づく決定である。「被包括宗教法人の相対的に弱い地位を向上させるところに意義がある」(渡部蓊『逐条解説 宗教法人法』第四次改訂版)という説明もなされる。

だが、宗教法人法の制定直後は、被包括関係廃止の理由として「信教の自由」という限定が重視されていた。前掲書が引用する昭和三十四年の資料には、「信教の自由に係わりなく……包括宗教団体の統制が行き過ぎるとか又は妥当性を欠くとか、……感情上の問題等の理由でこの規定を利用」することは規定の趣旨に反する、という宗務行政関係者の説明が載せられている。

その後、被包括関係廃止が「信教の自由」にかかわるかどうかを所轄庁はそもそも判断できない、という当然の理由から前記の文相裁決の立場に「解釈」が変更され(渡部、前掲書)、さらに「被包括法人の地位の向上」という説明が後から付加されたわけだ。

文化庁が宗教法人売買のような宗教法人私物化を問題に取り上げ、社会的にも私物化に起因するさまざまな事象が盛んに批判されるが、被包括関係廃止の規定あるいは宗教法人法が定める包括・被包括関係そのものを再検討すべき時期に来ているのではないか。

先ごろ甲南大で開かれた宗教法学会では、国法で宗教団体の包括・被包括関係を設けるのは日本だけだ、という指摘がなされたが、戦前戦後長らく宗務課に勤務し宗教法人法制定にもかかわった井上恵行氏がすでに同法が包括・被包括に関する規定を設けたことへ疑問を提示している(『宗教法人法の基礎的研究』)。

氏によれば、被包括関係の設定・廃止自体は宗教法人の「世間性」の面における相互関係ではなく、「出世間性」(信仰)の面における相互関係である。この「出世間性」の関係を法人の面からとらえ、所轄庁の認証にかかわらせているところにそもそも「不合理」があり「この制度の運営困難の禍根」がある。「皮肉にも、信教自由の保護のためのこの制度が、かえって政教分離の原則にそむくことになっているのである」

前述の文相裁決はまさに「禍根」の弥縫策だが、被包括関係廃止をめぐる訴訟事例を眺める時、そのうちの少なからぬケースで宗教界はこの「不合理」にいまも頭を悩まされていると考えざるを得ない。

ではどうするか。宗教法学会では教団内の上下関係は包括・被包括の国法上の規定ではなく、すべて教団の自治に委ねればよいという意見が示されたが、井上氏の見解も同じで、「政教分離という立法の根本趣旨を一貫する意味において……包括・被包括関係の設定・廃止は、あげて、宗教団体内部の規程にゆずるべきである」と提案している。

宗教法人法については、平成七年の「改正」部分を政教分離の観点から批判し、再改正を求める声がある。包括被包括問題も含め、宗教法人法を党利党略(十五年前のような)等とは無縁の立場でもう一度見直す必要があるだろう。