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著書を古井戸へ

2010年7月13日付 中外日報(社説)

上田秋成の『胆大小心録』。かねて書名だけは知っていたものの、岩波文庫の一冊としてリクエスト復刊されたのを機に初めて読むことを得た。

皮肉たっぷりの世相批判や史論・政論・文学論、あるいはまた自己の閲歴が語られている中で、次の一文に巡り合った。「去秋ふと思ひ立て、蔵書の外にも著書あまた有しを、ともに五くゝりばかり、庵中の古井えどんぶりことして、心すゞしく成たり」。そしてそのことから、話は鄭所南の『心史』のことに及ぶ。

「宋の亡ぶる時、鄭所南と云し人、大にかなしびて、宅を去とて、寺院に入て葷(なまぐさ)をくらわず、北にむかひて拝せず、又一是居士の伝といふ物をかきて心をやりし也。又心史といふを書て、石函にをさめ、古井に落して、其井をうづめて曰、後世是が出んとき太平なるべしとぞ。其心史が明の崇禎の末に又出て人しりたりとぞ」

鄭所南、一名は思肖は、十三世紀の後半、南宋王朝がモンゴル族の元王朝によって亡ぼされる時代に際会するや、ここに語られているように、あくまで南宋を是とし、北面して元には仕えざる心情を述べる『一是居士(いちぜこじ)伝』を著わした。庚辰九月、すなわち元の世祖フビライの至元十七年(一二八〇)の九月に著わされたこの文章は、「一是居士は大宋の人なり。宋に生まれ、宋に長(ひと)となり、宋に死す。今、天下の人悉く以て趙氏の天下に非ずと為すは、愚なるかな」、このように書き起こされている。趙は宋の王室の姓である。

鄭所南はまた自分の著作のすべてを『心史』と名付けた上、これが再び世に現われる時には天下太平であれかしとの願いのもとに、古井戸に投げ込んだ。そしてそれからおよそ二百五十年が経過した明の崇禎十一年(一六三八)の冬、蘇州の承天寺の古井戸の中から『心史』は発見される。

『胆大小心録』には「石函にをさめ」とあるけれども、実は鉄の函に収められていたために『鉄函心史』と呼ばれるのだが、その外側の封題には「大宋の孤臣鄭思肖、百拝して封す」と書され、内側の封題には「大宋世界無窮無極」「大宋鉄函経」「徳祐九年、仏生日に封す」と三行にわたって書されていたという。徳祐は南宋の末帝の恭宗の年号であり、徳祐九年は元の至元二十年(一二八三)に当たる。

ところで『鉄函心史』が井戸の中から発見された崇禎十一年、鄭所南の願いとは裏腹に、明王朝はすでに太平どころか気息奄々たる状態であり、やがて間もなく満洲族の清王朝によって亡ぼされる。異民族王朝である清の時代において、異民族王朝の元に対する抵抗の精神で貫かれているところの『心史』の扱いは極めて微妙であり、冷淡であった。例えば『四庫提要』は存目にその解題を伝えているにすぎない。

『四庫提要』のフルネームは『四庫全書総目提要』。清の乾隆帝の事業として、天下から集めた書物を経・史・子・集の四部に分類の上、書庫に収め、それらに施した解題が『四庫提要』であるが、書庫には収めずにただ目録だけを残したのが存目であって、その存目の解題は、明末に発見された『心史』を偽作とする立場に立つ。

しかるに前世紀の余嘉錫(ユイ・チアシー)氏が『四庫提要』の誤りを正すべく著わした『四庫提要弁証』は『心史』を真作と見なし、桑原隲蔵(くわばら・じつぞう)氏の『蒲寿庚(ほじゅこう)の事蹟』を真作説の有力な援軍としている。桑原氏は内藤湖南と共に京都大学の東洋史学の創始者。『蒲寿庚の事蹟』は氏の代表作であり、蒲寿庚はあたかも鄭所南と同時期の南宋末、アラブ出身でありながら泉州における海外貿易の事務を管理する役所の長官を務めた人物であった。

実は『心史』の「大義略叙」と題された一文に、蒲寿庚は「蒲受畊(耕)」の表記で登場し、『四庫提要』はこうした表記の違いを偽作説の一証とするのだが、桑原氏は音通による表記の違いと断じ、『心史』の記事が信憑するに値することを論じているのである。

かくもさまざまに取り沙汰される『心史』。自分の著書を「古井えどんぶりこ」としたことの引き合いとして『心史』を持ち出した上田秋成は、その一条を「さらば翁の無益の物も、心史も、こゝに置て同談也」と結んでいる。いささかの皮肉な口吻が感じられなくはない。ただし、鄭所南にとって『心史』は決して「無益の物」ではなかったはずである。