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想像力の欠けた危うさを考える

2010年7月3日付 中外日報(社説)

二月の南米チリ沖巨大地震で大津波警報が出された青森、岩手、宮城三県の太平洋岸住民の三人に二人までが避難勧告や指示に従わず避難しなかった。NHKのそんな調査結果が『放送研究と調査』(NHK放送文化研究所)六月号で報告されている。避難しなかったのは「自分は大丈夫」という判断によるようだ。近年、人の究極の苦である「死」が日常生活で見えないという話をよく耳にする。どこか通じ合う心の動きのようにも映る。

チリ地震では太平洋岸全域に大津波・津波警報が出されたが、避難した人はごく少数だったことが、消防庁の全国調査で分かっている。NHKは五十年前のチリ地震で大被害を受けた三陸海岸を中心に調査した。

報告では、避難しなかった人の半数近くが「自分のいるところは安全」と思ったという。だが、津波の規模を半数以上の人が気象庁の予測(三メートル程度)より「低い」あるいは「津波は来ない」と考えたという。「安全」と判断したこと自体危なっかしい。高をくくったケースがあったのでは、と報告は控えめながら懸念を表明している。

結果的に津波は予測を大幅に下回った。気象庁の警報発令を八割の人が容認しているが、予測通りの津波だった事態を想像したのだろうか。報告は、地震の強さを体感できなかったことを避難者が少なかった主因とし、情報伝達の重要さを強調している。もとより異論はないが、それだけではなさそうだ。

あまり適切とはいえないが、筆者は江戸時代末期の狂歌師・大田南畝の辞世の歌を思い出した。「いままでは人のことだと思ふたにおれが死ぬとはこいつはたまらん」。人は死を避けることができないのに日々雑事や煩悩に惑わされ、いずれ来る命の滅びになかなか目が向かない。そろそろ人生の仕上げという歳になって気が付き、慌てふためくという話は先人から再三聞かされている。だが、いつの間にかまた惰性に流されるという後悔はいつものことだ。「明日はわが身」と自覚することは難しい。

特に近年は核家族化が進み、また自宅ではなく病院で死を迎える人が大半を占めるようになって家族の死とさえ向き合うことが少なくなっている。その結果、人が死ぬとはどういうことなのか、その想像力が働かなくなっているといわれている。昨今、虐待死をはじめ短絡的な殺人事件のニュースに触れない日はないくらいだが、そのことと無関係とは思えない。

新聞の投書欄に「駅のホームに人身事故の放送が流れる。『ちぇ、またかよ』と吐き捨てる声が飛ぶ。あわてる人、怒る人、気味悪がる人、無関心な人……この瞬間、一つの命が消えてしまったことに胸を痛める人は何人いるだろうか? 無関心は目に見えぬ凶器かもしれない」という投稿があった。想像力を欠いた人の心は、確かに怖い。

話を戻すと、災害が起こるたびに「まさか自分が巻き込まれるとは思わなかった」と悔いる被災者が少なくない。ただ、チリ地震でいうと三陸海岸で五十年前の惨事を語り継いでいる地域は、ほぼ半数の人が警報で何らかの行動を起こしたという報道が先日あった。NHKの調査でも、六十歳以上の避難率は比較的高かったという。想像力を働かせるには、やはり体験を語り継ぐことが一番なのだろう。それは人の「死」にも通じるように思う。

「今の子どもたちの多くは、命はリセットできると思っている。漠然と命の尊さを説くだけでは響かない」。少し前、子どもによる殺人について教育者の一人がそう嘆いていた。一方では団塊世代の高齢化に伴って「多死社会」への備えが必要という警告を聞く。そのような時代だからなおさら、死者の弔い方一つにも、その「死」が長く語り継がれるような知恵を求められているのだろう。