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他者への奉仕と自由

2010年7月1日付 中外日報(社説)

政治に関するイエスの言葉は少ないが、その中にこういうものがある。イエスと弟子たちの殉教と栄化の予告に続く教えである。

「君達(イエスの弟子達)も知っての通り、異邦の支配者とされている者は人々を服従させ、また彼らのなかのお偉方は権勢を振るっている。しかし君達の間ではそうではない。君達のなかで偉くなりたい者は仕える人となり、かしらとなりたい者は皆の奴隷となれ」

さてイエスの時代、地中海世界の覇者となっていたローマは、第二代皇帝ティベリウスの治下にあった。すなわちすでに共和制(有力貴族による寡頭制)から帝政に移行して、皇帝を頂点とし、奴隷を底辺とするピラミッド型の巨大社会が成立していたのである。そのような状況の中で「かしらとなりたければ奴隷になれ」と言えば、そもそも権力構造を全面否定するか、あるいは帝政ローマの底辺に甘んぜよと言っているように聞こえるが、そうではなかろう。

実は上記の言葉の少し前(マルコ九・三三以下)にも同様の言葉があり、それはイエスの弟子たちが、弟子の中で誰が一番偉いかあげつらっていたのをイエスが知って、たしなめた形になっている。「先頭に立ちたければ最後尾についてすべての人に仕えるがよかろう」と。

このような場合、恐らくは同じ伝承が二つの形に発展したのだと考えられるから、イエス後の原始教団の歴史を前提としていない第二の言葉の方がイエスの真意に近いと思われる。しかしこのような断片的な言葉からイエスの政治観を導き出そうとするのは無理な話で、イエスは全体として政治には関心が薄く、また若くして十字架につけられてしまったので、その思想を充分に伝えることも展開することもできなかったのである。この点で四十年以上も布教と弟子の訓練に専念できた釈尊とは大きな違いがある。

とはいえ、ここにイエスの真意が垣間見られることも事実である。イエスは、少数者が権力を集中し富を吸い上げるピラミッド型の格差社会を嫌っているのだ。

そもそもイエスの神は恐るべき専制君主ではなく、世界のため人のため下働きに徹する神である。イエスはそのような神の「支配」(神のはたらき)が人間において成就した形を純粋に語っているのだ。

だからそれは現実の記述でもなく、行動の規範でもなく、まして変革のプランではない。

従ってイエスの真意を展開すれば、社会生活とはお互いがお互いのために配慮し、必要なものを提供し合う関係である。それは実質上、使徒パウロの教会観と一致している。パウロが説く教会とは、そこで神のはたらきが成就する結果、互いに配慮し合い、必要に応じて互いに頭となり肢体と成り合う関係、すなわち中心と周辺との関係が固定されず、相互的となる集団であった。

イエスの言葉では、人間関係は個人的なものとしてとらえられている。しかし社会は組織された人間集団であり、そこでは人間関係も多かれ少なかれ制度化されるものだ。実際、原始教団を組織することを始めたパウロではそうなっている。組織と制度の萌芽が見られるのである。

話は飛躍するが、神のはたらきを宿した人格の尊厳が法律の次元に移された時、十七世紀イギリスの清教徒革命に見られる「基本的人権」という近代的理念が成立したと考えることができる。

さらに言えば、イエスが理解しているような人間関係では、人々は進んで仕え合うのであって、それは義務でも強制でもない。それは自由の行為である。その点を明瞭に表現しているのが、マルティン・ルターの『基督教的人間の自由』で、そこではキリスト者は誰にも従属しない自由人でありながら、他方では万人に仕える者である。

ところで仕えるためには自由な人間が働いて、互いに他者に提供すべき個性的な価値を創造しなくてはならない。そして社会とは、単に個人的な関係ではなく、上のようにして必要なものが必要なところに提供される「システム」のことだ。

基督教国や教会がこのような社会を実際につくってきたとは必ずしもいえないが、上記のような社会観は、己事究明に徹するという尊い伝統を持ちながら、他方では「知恵と慈悲」の行を旨としてきた仏教徒にも共感を持たれ得るのではないだろうか。