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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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殺処分される生命

2010年6月12日付 中外日報(社説)

口蹄疫禍がまだ収まらず、数万頭以上の家畜が殺処分を待っているという。「何としてでも拡大阻止を」とする一方、「なぜ感染していない牛まで処分するのか」「他に方法はないのか」の声も。畜産農家は「手塩にかけて育てたのに」と涙さえ見せ、その苦悩は察するに余りある。

ここで全頭殺処分の是非を論じるものではないが、事態は人間の生活と生き物の「命」とをめぐる重い問題点をはらんでいる。「命」の専門家である宗教者はどう考えるだろうか。

論点は二段階ある。まずこの病気が、充分成長した牛や豚がバタバタ死ぬような重篤なものではなく、餌を食べずに肉質が低下するなどの被害が問題だということ。

では全頭処分によって何を「守る」のか。もちろん牛や豚の命ではないし、ヒトにはまず感染しないので人間の健康でもない。守られるのは「優良な牛肉」などの「ブランド」だ。

そして、その最大の「敵」は、口蹄疫そのものよりも、白い防護服姿で消毒薬を散布する映像がテレビで流れ続けることなどで形成される、「何だか怖い」という消費社会の「風評」。多くの農家もその被害を嘆いている。そこにあるのは、まさしく市場経済の論理だ。

市場経済を前提に、人間の都合で生き物の存在を操作する例は枚挙に暇がないが、例えば以前のBSE問題でも、本来草食である牛に、「品質向上」のため同じ牛の肉骨粉を食べさせたのが感染原因となり、それが人間にも降りかかって変異型ヤコブ病が発生した。

BSEでも今回の騒動でも、動物愛護団体の声はあまり聞こえてこないが、先日の「朝日新聞」の口蹄疫問題特集には、子供に「牛を病院に入れて治してあげることはできないの?」と問われたらどう答えるか、という食育研究者の意見が出ていた。

このような市場の論理による処分は、過去にも例がある。動物に限らず、価格低下で野菜が畑ごとブルドーザーで埋められるケースは多い。鳥インフルエンザ騒動の際は、生きたままの大量処分に、携わる係員にも大変な心的ストレスが生じることが問題になった。同じことは今回も指摘されている。

だが次の段階として、もとよりこの牛たちは人が食用に屠殺する、そのために肥育しているということ、そもそも人間は多くの生き物の命を食べ、その上に生かせてもらっているのだ、ということを再認識しなくてはならない。

市場経済社会の中でそのことは忘れられ、隠され、スーパーに並ぶパックの「切り身」しか見たことのない子供たちには、それが身近なペットの金魚や犬や小鳥と同じように「命」のある魚や鶏や牛であることは想像しにくい。

前記の特集では、別の農産物流専門家が「生産と消費の関係を見直すべきだ。牛肉、豚肉ではなく、『牛さんの肉』『豚さんの肉』と呼んでみてほしい」とも訴えていた。

かつてある小学校で、先生の指導により児童らが自分たちで鶏を処分し、調理して食べるという授業が報道され、大きな反響があった。単に「かわいそう」では、そのような仕事をする人への偏見を生みかねない。そのことも踏まえ、人間も含め生き物の命はすべて他の生き物の命の上に成り立っていることを教える重い取り組みで、同様のテーマである宮沢賢治の童話「よだかの星」の朗読も行なっていた。

この作品は、仏教思想に傾倒していた賢治の生命観、心境を深く投影したものとされる。他者の命の上に成り立つ自らを悲しむと同時に、それらの命への感謝と慈しみが大切なことを物語っている。

仏教には、宗派によって表現が異なるが、「山川草木悉有仏性」の思想がある。イスラームには、家畜を処分する時、神の名を唱え、命の恵みに感謝しなければならないという戒律がある。命への深い洞察は諸宗教に共通するものだ。

今回の口蹄疫騒動を機に、宗教者はぜひ、それぞれの宗教の核心にある生命観について語ってほしい。