ニュース画像
多くの人が見守る中、彰義隊墓所で盛大に営まれた150回忌法要
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

パンドラの箱

2010年6月3日付 中外日報(社説)

一九九〇年代にインターネットが大衆化した時、個人の意見を示す手段として、まず使われたのがホームページであった。宗教組織が団体としてホームページを開設するより早く、宗教関係者が個人的なホームページを開設して、宗教的見解を述べる例もあった。

しかし、ブログというスタイルができると、たちまちこれが人気となった。宗教関係者もまたこれを多く利用するようになった。ブログは基本的に不特定多数に発信されるので、もう少し限定されたメンバーで意見を交換する手段へのニーズが潜在的にあったと考えられる。従って、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の一つであるミクシィが開発されると、あっという間に広まりを見せた。若い世代では複数のミクシィ、時に数十のミクシィに加わっている人もいる。

そして最近では二〇〇六年に開発されたツイッターがにわかに人気となっている。一つの「つぶやき」が百四十字以内という制約は、情報の発信・受信には不充分と感じる人もいるだろうが、携帯メールに慣れた世代には、むしろ適切な長さなのかもしれない。

こうして個人がほとんど経済的負担を感じることなく自分の意見を公にできる時代となった。多くの人の支援を必要とする政治家や、多くの人と意見を交換したい宗教家などにとっても、極めて便利なツールが出現したといっていい。

だが、便利なツールには、必ず落とし穴がある。有益な情報と共に、無視できない量の、中傷、誹謗、批判の言葉もまたネット上に行き交っているのである。個人的な恨みがあるのか、特定の個人を徹底的に誹謗するようなツイッターの文章も目にする。昔なら怪文書と呼ばれたような類も、繰り返しネット上に流れているのが現実である。韓国ではツイッターで誹謗された女優が自殺した例も報じられている。「サイバー侮辱罪」の制定が必要だという声さえ出ているという。

他人をおとしめ、攻撃することに快感を覚えるというのは、一部の人間にだけ見られるものではない。大なり小なり、多くの人の心の底に潜む。普段は理性と呼ばれる力がそれを抑えている。しかし、ネット世界はその抑止力を相当程度弱める作用を果たすようだ。このマイナス面が際立てば、ネット規制の声が高まったり、また、思わぬ現実的闘争への転化が起こったりすることも当然考えられるのである。

こうしたツールを開発する人たちは、このような負の面をあまり考慮しないのだろう。というより、できないという方が適切かもしれない。便利さを目指して作られたものが、思いがけない形で悪用されるのは、これまでも数限りなく繰り返されたことであるからである。

個人の意見を気軽に発信するさらに便利なツールが開発されれば、それがさらに卑劣な手段を可能にするに違いないのである。ネットが不特定多数に開放されたことで、人類はいわばパンドラの箱を開けたような結果を招いたといってよい。

いじめられる人の心の痛みは、いじめる側がいじめられる側になって初めて分かるようである。ネット上の誹謗中傷もおそらく同じである。他人をおとしめて嬉々としている人たちは、自分がそのターゲットになるまで、その苦しみを想像し難いに違いない。

このことを気付かせる役を宗教家も担っているはずであるが、そのためには、宗教家もまた、できればツイッターの仕組みを心得ておいた方がいいだろう。何が起こっているかが理解できなければ、対応についても語り得ないからである。