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官の力に頼らぬ大阪の市民文化

2010年6月1日付 中外日報(社説)

広島市に文学館をつくる運動を進めてきた市民団体「広島に文学館を!市民の会」が、三月末限りで活動を停止したと聞いた。

戦後の広島で生まれた原爆文学作品を収集し、保存するために、市立の文学館を設けるよう、市当局に働き掛けてきたが、はかばかしい返事がなく、市民の期待に応えられそうにない、というのが活動停止の理由のようだ。

ご多分に漏れず、広島市の財政は苦しい。平和都市で生まれた、原爆にかかわる創作や詩などが散逸せぬよう保存するのは意義あることだ。だが原爆資料館、追悼平和祈念館、県市の図書館(いずれも略称)などが並存する現在、市が新たなハコもの新設に慎重を期する姿勢も、分からないではない。

朝日新聞広島版によると「市民の会」代表だった水島裕雅・広島大名誉教授は「今後も貴重な文学資料を守る活動は続けたい」と語っている。

広島に居住していないので「市民の会」と市当局の間でどんな折衝があったかは知らないが、仮に文学館が市費で建てられ、市費で運営されることになっていたら、館長はじめ幹部職員は市から天下りして"お役所感覚"の文学館になりはしなかったか。

筆者はかつてある地方都市で、その市が生んだ文豪を顕彰する文学館を訪れたことがある。生前、その文豪の代表作は青年必読の書といわれた。しかし没後約六十年、その名声は忘れられかけたのか、参観者は筆者だけ。職員は隣の公民館と掛け持ちらしく、電灯は入館時に点灯し、退出時に必ず消すように、と掲示されていた。

ガラスケースの中には、文豪が書いた原稿用紙の束と、古ぼけた著作物が並んでいるだけ、もちろん手を触れることはできない。壁には変色したモノクロ写真が約十枚。これでは物置同然で、参観者が寄りつかぬはずだ。

文学館や文豪記念館を物置にしないためには、常に見学者を引き寄せる工夫をして"動態保存"を目指すべきではないだろうか。展示物に映像を組み入れるなどの工夫を凝らす一方で、文学者の集う場とすることを考えてもよい。

想起するのは、戦後の大阪で生まれた「大阪文学学校」である。昭和二十九年に入会金百円、月謝百円でスタートし、小野十三郎、金達寿、椎名麟三氏らが文学を志す青年男女に作品の書き方を手ほどきした。その中から芥川賞の田辺聖子さんをはじめ、多くの文学賞受賞者を輩出した。

先日の産経新聞(大阪)夕刊「夕焼けエッセー」欄には、七十五歳の辻次和子さんという女性が投稿していた。小学生の孫と、漢字論争をした時「これでも大阪文学学校の2期生やで」との言葉が出たと記す。このように大阪文学学校の伝統は、関西の社会にしっかりと根付いている。

大阪は商人の町として発展してきたが、必ずしも算盤(そろばん)一辺倒ではなかった。江戸時代中期には、豪商たちが協力して、懐徳堂という学塾を設立した。塾からは富永仲基、山片蟠桃ら"町人学者"を送り出している。

特に富永が、大乗仏典は釈尊の語録ではないと主張した「大乗非仏説」は、いわゆる訓詁教学を打ち破る意味からも、仏教界に大きな影響を与えた。

その伝統を継ぐものの一つに、戦後「船場」の商家を足場に生まれた「船場大阪を語る会」(三島佑一会長)がある。年四~六回のペースで講演会や見学会を重ね、町民文化を再発見する活動を重ねてきた。その事情は昨年二月二十四日付の本欄で紹介した。

特筆すべきは、これら大阪の諸活動が「官」の助けを借りず、市民たちの力で始まり、続けられてきたことだ。広島に限らず、各地の文学・文化活動に示唆するところがあるのではなかろうか。