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陶淵明と五斗米

2010年5月25日付 中外日報(社説)

中国から届いた『文史』二〇〇九年第三輯に登載の「陶淵明的宗教信仰及相関問題(陶淵明の宗教信仰と関連の問題)」と題された論文を読んだ。筆者は范子燁(ファン・ヅーイエー)氏。

四、五世紀の中国、東晋末から南朝宋の時代を生きた詩人の陶淵明。彭沢県(江西省湖口県の東)の県令となったものの、上級官庁の郡から監察のためにやって来た役人を束帯に威儀を正して出迎えるよう下僚が進言すると、「我は五斗米の為に腰を折って郷里の小人に向かうこと能(あた)わず」、わしはたったの五斗米の為につまらぬ田舎者にへいこらすることはできぬ、そのように言ってさっさと職を投げ出し、故郷に引き揚げてしまったというのは有名な話である。

陶淵明はなぜ「五斗米の為に」と言ったのか。五斗はおよそ十リットル。そのことについて、県令の月俸であるとか、一月分の糧食であるとか、これまでにさまざまの説が出されている。范氏の論文もその意味を問うことに主眼が存するのであり、前世紀の中国史学界の巨匠であった陳寅恪(チェン・インチュエー)氏が「陶淵明の思想と清談の関係」その他の論文で、陶淵明は道教の天師道の信者であったと論じているのにヒントを得て、范氏は次のように推論する。

後漢末に起源する天師道について、「其の道を受くる者は輒(すなわ)ち米五斗を出だす」(『後漢書』劉焉伝)とか、あるいはまた「巴郡の巫人の張修、病を療し、愈(い)えし者は雇(むく)ゆるに米五斗を以てす。号して五斗米師と為す」(同霊帝紀注)とか、「病者の家をして米五斗を出ださしむるを以て常と為し、故に号して五斗米師と曰う」(『三国志』張魯伝注)などと伝えられ、それ故に天師道は五斗米道と称されもした。

かく五斗の米は天師道の信者が教会に献納する会費であり、もし少量の五斗の米すらない場合には、入信するための資格が備わらず、また巫医として五斗米師の名で呼ばれた天師道の教師に病気治療を依頼する権利もなかった。つまり、天師道信者であることを保証する最低の物質的条件を意味した「五斗米」なる言葉を、陶淵明は微禄を表現するために代用したというのが范氏の結論である。

范氏の論文はなかなかの長編であって、論文のタイトルに「関連の問題」と銘打たれているのに違わず、このような結論に達するまでに実にさまざまの事柄に説き及ぶ。それら多方面にわたる論述の中から、必ずしも論文の本旨とはかかわりがないものの、思いもよらぬ知識が得られるのがかえってうれしい。

例えば王羲之が東晋の永和九年(三五三)に会稽山陰(浙江省紹興市)の蘭亭で催した雅宴は「蘭亭序」によって有名だが、范氏は陶淵明の「斜川に游ぶ」詩に添えられている序が天師道の熱心な信者であった王羲之の「蘭亭序」の影響のもとに作られていることを述べ、それと関連した事柄のさらに関連として、その注に王羲之の生卒年について言及する。

王羲之はすこぶる有名な人物であるにもかかわらず、その生卒年は定かではなく、西暦三〇三-三六一年、三二一-三七九年、三〇七-三六五年の三説が行なわれている。ところが范氏の注によると、最近のこと、紹興の収蔵家の張笑栄(チャン・シャオルン)氏が王羲之の妻である(ちせん)の墓碑を入手し、高さ六八・五センチのこの墓碑には、二十八行にわたって三百五十四字が隷書体で刻まれており、夫の王羲之が升平二年(三五八)に五十六歳をもって卒したと記されているという。つまり王羲之は西晋の太安二年(三〇三)に生まれ、東晋の升平二年に卒したわけであって、従来行なわれていた三説にまた新たな一説が加えられたことになる。

范氏はこの墓碑が伝えるところに信をおくのだが、さりとて墓碑を実見しているわけではなく、もっぱら新聞報道に基づいておられるようである。ましてやわれわれには、残念ながら墓碑の真贋を確かめるすべはなく、隔靴掻痒の感は残るのであるが。