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読書する意義を説いた高校教師

2010年5月11日付 中外日報(社説)

三月十八日付の本欄「本を読むことは楽しいはずだが」を読んだAさんから、感想を記した長い便りを頂いた。Aさんは秋田県の出身で、現在は首都圏に住んでいる。

本欄が提起した問題点の第一は、読書感想文には国語力を伸ばす効果もあるけれど、感想文書きを義務付けることによって、本嫌いの子どもを増やしてはいないか、であった。

第二の提起は、入学試験等の出題で作家の文章などを引用し「作者はここで何を訴えようとしているか」を問うこと。作者が考えてもいなかった内容を正解としかねない国語教育への懸念表明であった。

第一の点についてAさんは「私はもともと本好きでしたが、感想文書きはいやでしたね」と告白する。小学校時代に「こういう物語で、こういう主人公がいて……」と書いたら、それだけで制限字数いっぱいになった。先生から「お前が書いたのは、あらすじだ。感想が書けていない」と酷評された。

偉人伝について書け、と言われた時は、特にいやだった。ひねくれ児童だったと自称するAさんは「世の中に、こんな"いいことずくめ"の人がいるわけはない」と思いながら、しぶしぶ書いた。

第二点について、高校二年生の国語の時間に、Aさんは「作者がこの文を書いた意図」についての設問を与えられた。ある作家の文章の一節だった。

一応の答えを出したAさんは「先生には分かるんですか」と反問した。「実は私にも分からない」が先生の答えである。

先生は、言葉を続けた。「この学校は進学校だから言うが、入試では君の答えは七十点止まりだろう。百点満点の模範解答は、こうなっているよ」と、教師用の"虎の巻"を開いて見せてくれた。

その上で「入試で点数が問題にされるのは、やむを得ない。だが本当に大事なのは、七十点止まりの出来にしても、その答えを君がどんな経過で導き出したかということ。それが本当の勉強だ」と話した。

作家は、文章を自由に書いていいのだし、読む側の感想も、自由に感じていいのだ。テストのために百点満点の答えを出すのは、読書本来の楽しさとは関係のないことだ……。秋田の高校の先生は、そのことをAさんに教えてくれた。何という名の先生だったのか、Aさんの便りには記されていない。

それはともかく、読書感想文を仕上げるのは大変な作業だ、とAさんは思う。書き手の意図を正しく把握しなければならないし、賛同するにしても批判するにしても、自分の側に基本となる思想を確立しておかねばならない。読書が習慣づけられていない今の普通の子どもには、重荷だ。読書感想文コンクールに応募して入賞するには、優れた感性のある子どもを、実力ある先生が特訓指導して仕上げねばなるまい。

「読書とは、一文字一文字を読んで言葉を把握し、文脈を理解し、物語や内容を自分でつないでいくことです。これは幼いころからの練習や慣れがないと、スムーズにはできません」とAさんは述べる。

そのAさんは、自分の職業を「物書き」と記している。「感想文書きに悩まされていた私が、文筆業になろうとは、思いもかけないことでした」とも。その原点は秋田の高校の先生の教えにあるようだ。

「書くのも読み取るのもこっちの自由でいいのだと納得してから、文章を書くのを仕事にするのも悪くないと、ぼんやり思うようになりました……」

Aさんの便りで想起したこと。八百余年の昔、法然上人は一切経を読みに読んだ。その回数、三回とも五回とも伝えられている。その上での"読書感想文"が専修念仏の提唱だった。八百回大遠忌を前に、その思索の深遠さを思う。