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「一粒の丸薬」の清談

2010年4月24日付 中外日報(社説)

『南斉書』と『南史』の崔懐順伝に『漢書』王尊伝に見える話を踏まえた記事のあることは今年一月二十六日付本欄「孝子と忠臣」で紹介した。

王尊伝の話とは、益州刺史となった王陽は州内の巡察に出掛けて急坂の九折阪に差し掛かると引き返したが、後任の王尊は、「王陽は孝子たり、王尊は忠臣たり」と口にした上、車を牽く馬に鞭をくれて突っ切ったというもの。孝子たらんとした王陽は両親からの授かりものである肉体を大切にし、それに対して、忠臣たらんとした王尊は職務を忠実に実行したというわけである。

ところで南朝宋の劉義慶(りゅうぎけい)の撰述にかかる名士逸話集の『世説新語』、その言語篇にも、やはり『漢書』王尊伝の話を踏まえた一条がある。

――桓公が峡谷に差し掛かったところ、絶壁は天空にぶら下がり、波は逆巻き流れは荒々しい。そこでこう嘆息した。「忠臣たらんとするかぎり、孝子たりえない。いかがしたものか」

桓公とは東晋時代の軍閥の桓温。永和二年(三四六)、現在の四川省の地域に割拠する成漢政権を征討すべく長江をさかのぼった時の話であり、峡谷とは長江が四川省から湖南省に流れ下る間の難所の三峡。筆者も三十年ほどの昔に通過したことがあるが、ここに表現されている通りの景観である。『世説新語』の劉孝標の注の指摘を待つまでもなく、桓温のこの言葉が『漢書』王尊伝を踏まえることは間違いがない。

孝子たるべきか、それとも忠臣たるべきか。このテーマに関して、同じく『世説新語』の軽詆(けいてい)篇にもまた次の一条が見いだせる。

――簡文帝が許玄度(きょげんど)と清談をやろうと持ち掛けると、許玄度は言った。「君親の問題を取り上げてひとつやりましょう」。簡文帝はその場では何も答えず、許玄度が退席してから言った。「玄度はあんなテーマを持ち出さなくてもよかったのに」

簡文帝は東晋の第八代皇帝の司馬昱(しばいく。在位三七-一三七二)。許玄度は当時きっての清談の名手として聞こえた許詢(きょじゅん)であって、玄度はその字(あざな)。

人間の才能と性格との関係をさまざまの角度から議論する才性四本論、あるいはまた音楽そのものに哀楽の感情があるのか、それとも哀楽は人間の心に存在するのかについて議論する声無哀楽論のごとく、あるテーマをめぐって行なう討論が清談なのだが、それでは「君親の問題」とはどのようなものなのであろうか。劉孝標の注に「原(へいげん)別伝」から次の話が引かれている。

魏の五官中郎将が名士たちと議論をした時のこと、一つの問題を提起した。「今ここに一粒の丸薬があり、一人の病気だけしか治せないとする。君主と父親が同時に病気になった場合、君主に服用させるべきか、それとも父親に服用させるべきか」。列席していた面々のある者は父親だと主張し、ある者は君主だと主張し、議論は紛糾した。だが原がムッとした表情で「父と子とは一本なり」と言い、そこで議論は打ち切りとなった。

五官中郎将とはやがて三国魏の初代皇帝となる曹丕(そうひ)。原が「父と子とは一本なり」と言ったのは、父親と子供とは根本を一つにするところの一体の存在であり、父親の命を優先させるのは分かりきったことだ、というのである。

『世説新語』軽詆篇のこの一条によって、「一粒の丸薬」の話が清談の一つのテーマとなっていたことを知るのだが、ところで劉孝標は「原別伝」を引いた上でこう述べている。

「君親の相い校(くら)ぶること、古自(よ)り此(かく)の如し。未だ簡文の許を誚(せ)むる意を解せず」。君主と父親のどちらを優先させるべきか、その答えはこのように昔からはっきりと決まっているのであって、簡文帝が許玄度に対して不満の言葉を漏らしたわけが分からない、そのような意味である。

曹丕と原、また簡文帝と許玄度はいずれも君臣の関係であり、「一粒の丸薬」のテーマはすこぶる深刻な問題をはらんでいたはずである。だが原も劉孝標も、親子の間のモラルである孝が君臣の間のモラルである忠に優先するのはまったく自明のこととする立場に立つのである。そして恐らく許玄度も、いくらか意地の悪い下心のもとに「一粒の丸薬」を清談のテーマに選ぼうとしたのであり、だからこそ簡文帝は不満の言葉を漏らしたのであったろう。