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開かれた社会と相撲界の国際化

2010年4月13日付 中外日報(社説)

人気力士、エストニア出身の把瑠都が横綱朝青龍引退後の春場所で大関昇進を決めた。これで大関陣の過半数が外国人力士だ。もう一人のモンゴル出身横綱白鵬が全勝優勝し、一人横綱の責任を果たした。朝青龍問題の余波はどうにか食い止めたようだ。ただ、外国人力士の進出には世上の抵抗感が根強く、日本相撲協会もかなり神経質になっていると聞く。だが、国技の「国際化」は日本が「開かれた社会」へと向かう指標にならないか。筆者はむしろ肯定的に評価したい。

外国人力士が論議された時期は過去にもあった。当時は相撲本来の技の美に欠けるという批判が多かったと記憶する。昨今は薬物汚染力士が追放され、朝青龍の引退も暴力問題が直接の要因だった。いずれもスキャンダルで相撲界の規律と横綱の品格が問われる事態だ。朝青龍については以前からの乱行もあり、引退は「やむなし」と筆者も受け止めた。ところが論壇の一部で彼は角界から追放された、との視点で引退劇を批判する意見が聞かれる。

そのポイントは、土俵上で発揮する彼の天才的技量は特異な個性に根差していたが、世上の朝青龍批判は人間の生き方にかかわる個性を捨象し、はみ出した部分のみに焦点を当てて標準的な規範で排除したというものだ。

少し分かりにくいが、あえて例えるなら教育熱心な教師による生徒への「愛のむち」を暴力の側面でだけとらえ、教師の資質を一面的に否定するのは行き過ぎというニュアンスに近いだろうか。暴力は認められないが、世間一般の暴力排除の思想をあまりしゃくし定規に当てはめては個性を生かせない世界があるとも論者は主張する。

朝青龍は白鵬とは違ってモンゴルにおける自分のスタイルに固執し、日本に同化しようとしなかった。なのに往年の大横綱大鵬(優勝三十二回)や千代の富士(同三十一回)に迫る二十五回の優勝をした。彼を追う日本人力士は今のところ見当たらない。それやこれやで日本人の心に潜む外国人忌避の感情が刺激され、マスコミによる「やめろ」の大合唱がそれを増幅した。先述の意見はそのように分析する。要するに朝青龍の問題は日本社会の非寛容さを露呈するものだったという見立てだ。同じような感想を持った人は少なくないようで、全国紙の投書欄にも今の日本の世情は過ちを犯した人間に「とげとげし過ぎる」との趣旨の意見が掲載されていた。

賛否は分かれるだろうが「和して同ぜず」という『論語』の教えがある。周囲への協調は大事だが、付和雷同はいけない。少子化が進む日本の若者にとって相撲界はすでに異質な世界と言っていい。そのために生ずる人材不足は外国人に依存せざるを得ず、上位を外国人力士が占めても不思議はない。だが、彼らは固有の文化を持ち、日本の流儀が形式に流れるようだと個性を曲げず従順に従わない力士が出てくる恐れもある。暴力は困るが、そうした時代の状況に柔軟に対応する知恵も求められる。むしろ各国の異なる個性の力士がせめぎ合うことで角界に新たなエネルギーが生まれ、日本人力士を奮起させることになりはしないか。冒頭で国技の「国際化」を肯定的に評価したいと言ったのはその意味においてのことだ。日本を開かれた寛容な社会へと促す効果も期待できる。

話は飛ぶが、このほど成立した高校無償化法は朝鮮学校を除外した。筆者はこれに同様の文脈で異議を唱えたい。

この問題については、すでに真宗大谷派が「四海のうち、みな同朋」との親鸞聖人の教えも引いて除外に反対する宗務総長コメントを出している(本紙三月二十五日付)。将来、日本への貢献も期待される子どもたちを排除する「閉ざされた社会」であっては、発展は望めない。