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孤独な個人を包む「仏の国」の広がり

2010年3月20日付 中外日報(社説)

独居老人が増えている。今後ますます増えることだろう。ところで独居老人の社会とのかかわりはいかなるものだろうか。ひとつのヒントが良寛和尚に見られるように思われる。

良寛は新潟県出雲崎で庵を結んで暮らしていたが、その意味では地域社会の一員であった。当時の地域社会(村、町)には農民や漁民、職人や商人がいた。寺や神社があり、役人がいた。医師がいて、塾もあった。防火などのための自警組織などもあった。地域ごとの独立性が強く、メンバーの流動性は小さかった。

つまり地域社会は組織されていて、内部には機能集団があり、そこに属する人はそれぞれの地位を占め役割を担っていた。当時の地域社会は現在の境界の曖昧ないわゆるコミュニティー(地域社会)とは違い、社会としての実体性がよほど強固であったといえよう。

というのは、社会とは何かといえば、常識的には、外部に対しては何ほどか閉じられ、内部では組織された集団である。すなわちしかるべき機能集団から成り、メンバー同士の間に相互作用ないしコミュニケーションがある。さらに全体を統括し合意を形成する公認の機関(行政機構)がある、ということだからである。換言すれば社会には分業と秩序と構造がある、ということだ。

しかし良寛は地域社会の一員であったとはいっても、特定の機能集団に属していたわけではない。僧ではあったが、住職ではない。むろん秩序を乱すことはないが、といって地域社会の秩序と構造に組み込まれていたわけではない。

ただ、社会の有機的一構成員ではなかったといっても、良寛は里から隔絶した山中の庵に住んで木の実や草の根を食べていたわけでもない。托鉢で暮らし、里の人々と酒を酌み交わして楽しむのが好きであったようだ。子供たちと遊んだ話はあまりにも有名である。

しかし良寛には独り暮らしの面が強かった。それは独居してひたすら坐禅に励んだということだけではない。「世の中に/まじらぬとには/あらねども/ひとり遊びぞ/われはまされる」という短歌がある。良寛は多くの優れた漢詩や短歌、また書を残しているが、これは単に「ひとり遊び」の産物だとはいえない。

彼には強い社会的関心があった。その文章には社会や教団の現状を嘆くものが少なくないのである。それを含む彼の作品は後世に多くの影響を与え続けている。そもそも彼の生き方そのものに多くの人が共感するのである。

独居といっても良寛の生き方には作品を通じてのコミュニケーション活動があった。しかもそれは、はなはだ質の高いものである。他方、良寛には弟子がいたが、弟子団というサークル(ないし組織)があったとはいえないようである。

ではいったい彼の活動の「場」は何だったのか。彼はいかなる「社会」で機能的役割を果たしたのか。

それは「仏の国」というのが最も適切だと思われる。彼は――個人として――「仏の国」の住民であり、「仏の国」の住民に語り掛けた。

「仏の国」といってもそれは目に見える社会の一部ではない。そうではなく、目には見えないけれど、現実の世界をいわば包み、そこ・ここに姿を現わすのである。良寛を見ると「仏の国」の現実性が実感されるではないか。

定年後の独居老人は一定の場所で住民登録を行ない、年金をもらい、住民税を納め保険料を払い、公共施設を利用して暮らしている。生産活動はなくても消費はしている。だから地域社会の一員であるには違いない。

しかし何らかの機能集団に属し社会の有機的一員としての役割を担っているわけではない、という人が少なくないだろう。目に見えるコミュニケーションの相手がないという人もいるに違いない。では独居老人は社会からはみ出した孤独な人間なのだろうか。

良寛は「仏の国」の現実性を示唆している。宗教者の社会的活動ということがよくいわれるが、それは社会福祉に限られたわけではあるまい。むろん誰もが良寛になれるわけではないが、通信手段が発達した現代では、教団形成とは異なった仕方で、一見孤独な個人から成る「仏の国」を何ほどか目に見える形で現出させる宗教的営為が可能なのではあるまいか。宗教界全体を見れば、世の中は実際すでにこの方向に動いているのかもしれない。