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内なる世俗の昇華

2010年3月11日付 中外日報(社説)

(財)東方研究会の女性研究員・西村玲(りょう)氏が、今年度の日本学士院学術奨励賞と日本学術振興会賞を受賞した。女性の年齢に触れるのは失礼かもしれないがまだ三十代の若さ、他分野の錚々たる方々に伍しての受賞である。江戸時代の学僧・普寂(一七〇七~八一)についての研究『近世仏教思想の独創―僧侶普寂の思想と実践』(トランスビュー刊)が高く評価された。

同書は本紙「中外図書室」(一昨年五月二十七日付)では「儒教的合理主義、世俗的価値観が支配する時代状況の中で、それらに自覚的に対峙しつつ、仏教独自の価値観を明確に思想化した普寂の業績を再評価」「丸山(眞男)の近世思想史を乗り越えて、近世仏教の思想史的位置づけの再考を促す」と紹介されている。檀家制度・本末制度の中で思想的な力を失って形骸化したと見られてきた江戸期の仏教思想に新たな光を当てたともいえる。

最近、比較的若い年代の研究者の話を聞く機会があり、各大学に教養部がなくなってから、人文系の研究者は研究職に就く機会が狭められ、中堅以下の研究者が苦労しながら研究を続けている状況をあらためて思い知らされた。それでも、研究者としての道を目指す若者は少なくない。宗教学や仏教関係の研究者も増加している。西村氏の意欲的な研究がアカデミズムの世界で高い評価を得たことは、人文系の若手研究者たちを勇気づけるだろう。

振り返れば、江戸期まで統治者によって庇護されてきた仏教寺院は、文化の拠点でもあった。学僧を輩出する基盤が、そうした環境の中で形成されてきたのは事実だ。

これが一転して、明治維新以降、仏教寺院は日本社会の仕組みの急変によって、想像を絶する危機に遭遇した。爾来、幾多の戦争、殊に第二次世界大戦後の社会的混乱や、農地解放などによる経済基盤の喪失など幾多の危機に直面したが、宗学研究、仏教学研究の伝統は先人たちの努力によって維持されてきた。

だが、皮肉なことに、日本思想史の研究家たちはそのような危機の時代より、檀家制度によって経済的な安定を得た半面、幕府によって政治的に飼い慣らされた江戸時代の仏教を軽視する傾向があった。

多くの宗門で、内部の研究者は江戸時代の宗門史に重要な思想的展開を認めるであろうが、一般的には幕藩体制下の仏教思想は退廃期に入ったと見られてきた。そして、それが結果として、廃仏毀釈の悲劇を招く内部的要因だったというのが、大方の理解の図式だったと言ってよかろう。

西村氏の『近世仏教思想の独創』は、こうした江戸仏教理解の図式に一石を投じた。

「近代仏教思想の独自性とは、強大な幕府権力の下で、内なる世俗と合理性を聖性に昇華させていくこと、近代的な世俗化が進行する世界にあって、仏教を根源とする聖性を獲得していくことにあった」と西村氏は論じる。その課題に当時、自覚的に取り組んだ者がどれほどいたかはともかく、普寂が律僧としての思想・実践を通じて「聖と俗の乖離を俗たる自身の側から埋」めていったことを、西村氏は同書で明らかにした。

「世俗が圧倒的な価値観となっていく世界の不可逆的な変質」という問題に近代の仏教が――少なくとも普寂のような思想家が格闘したことをわれわれに思い出させたのである。

現代の仏教はこの「不可逆的な変質」の果てにある。同書は近世の一思想家の発掘という意味を超えて、今われわれがどのようなところにいるのか、という確認を促すと言っていいかもしれない。