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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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この次は避難ができるだろうか

2010年3月4日付 中外日報(社説)

二月の最後の日曜日の二十八日に、暗くなるまでテレビの画面を見つめた。一時外出の時は、携帯ラジオを持って行く。前日、チリで発生したM8・8の大地震による津波が日本にどんな影響を与えるかが心配だったからだ。

潮位の異常はまず東日本で観測された。第一波より第二波や第三波が強く、岩手県久慈港では一・二メートルを記録。やがて西日本にも到達し、高知県須崎港では日没後に久慈と同じ一・二メートルを記録、深夜にもそれに近い潮位を示した。

須崎港の護岸近くには幕末の安政元年(一八五四)十一月五日、安政東南海地震の被害を伝える石碑が今も立っているはずだ。今回の津波は、その石碑の近くまで押し寄せた。

安政元年は地震に縁の深い年で、東南海地震の前日の十一月四日には、安政東海地震が起こっている。本州南岸、紀伊半島の東と西で、二日続きの海底地震があったわけだ。黒船来航騒ぎにおびえる日本人は、地震という内患でも心を揺さぶられた。

十一月五日の地震と津波は、土佐(高知県)の人々の生活に深刻な打撃を与えた。死者三百七十二人、家屋被害約九千戸と伝えられている。江戸時代の中期以降、四国では八十八ヵ所を巡拝する遍路の往来が盛んになっていたが、土佐藩は地震以後、遍路の土佐入りを固く禁止した。

道路が寸断されただけでなく、民衆の暮らしが疲弊し、遍路に食物を提供してもてなす"お接待"ができなくなったためだ。このため明治維新を迎えるまで、四国遍路の人々は阿波(徳島県)の二十三番札所・薬王寺境内に設けられた遙拝所から土佐の方向へ向かって合掌し、それによって土佐の十六霊場を巡拝したと同じ功徳を授かったとして引き返したという。

今テレビドラマで人気を得ている坂本龍馬が脱藩して各地で活躍、薩長同盟成立の橋渡しをした当時、土佐の民力はどん底状態だったのだ。同じドラマに登場する岩崎弥太郎(三菱の創業者)の身なりが粗末過ぎるとの声も聞くが、あの服装が当時の土佐の常態だったのではないか。

わたくしごとだが、筆者の出身地は須崎港から三つ西寄りの湾に面した小漁村である。防波堤もないではないが、港の大部分は無防備状態で太平洋に面している。津波への備えが万全とはいえない。

浜にごく近い地区に住む数十人は、町役場の勧告で高台にある小学校の体育館に避難した。その間約九時間、七十歳前後の女性らが二度にわたり炊き出しをして、八十代、九十代のお年寄りの面倒を見た。これが過疎地の実態である。

他郷に住む肉親が安否を確かめる電話をかけても、小学校に避難していれば応答はない。幸いなことに、別の高台にある寺は避難勧告の対象外だった。住職や寺庭が、住民は無事、小学校に集まっていると、問い合わせ電話に応じていた。コミュニティーの中心としての寺の存在意義を示したことになる。

しかし住民が避難した小学校は、児童数の減少により二年後には閉校することになっている。それ以後にまた津波や豪雨などの災害が迫って来た時、住民はどうしたらよいのか。これもまた過疎地の厳しい現実なのである。これは高知県に限らず、同じようなリアス式海岸の続く岩手県や三重県などにも共通する課題ではないだろうか。

幸いにして今回の津波は地上への被害を起こさなかった。その後の新聞紙上では、気象庁が津波を過大視したとか、避難勧告に従った住民の割合が低かったとの指摘が伝えられた。しかし、次の津波が起こった時に、果たして「避難」そのものが可能かどうかを論じたものは、筆者の知る限りでは皆無である。政府や自治体は、寺々の住職の意見も聞いて、災害対策を練り直すべきではないか。