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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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喪主を思いやる導師でありたい

2010年3月2日付 中外日報(社説)

「お寺さん、これだけはやめて」と題した訴えを、二月十一日付の本紙3面でお伝えした。浄土真宗本願寺派東京教区が築地別院で開いた冬期僧侶研修会での発言の紹介である。発言者は「リメンバー名古屋自死遺族の会」の鷹見有紀子代表幹事だった。

身内から自死者を出した遺族の衝撃は、ひとしお強いものがある。心身ともに極限状態にあると言ってもよい。なぜ自ら命を絶ったのか、なぜひとこと相談してくれなかったのか、などなど……。

その遺族たちに、仏教学の専門用語を並べた法話をしたり、会葬者の焼香に謝意を示す立礼をさせたりするのは酷だ、と鷹見さんは訴えた。

導師が遺族をかばいながら、会葬者に対し、立礼ができない理由を説明してほしい。あらゆる葬儀を、遺族を苦しめない形に変えてゆけるのは宗教者だけだ、が鷹見さんの要望だ。自分の味わった苦痛を、ほかの遺族には味わわせたくないという。

本紙を通じての鷹見さんの訴えは、宗教界、特に仏教界に波紋を呼んだようだが、数日前、その一つの答えともいうべきメールが、中外日報社に届いた。東京都の離島で布教に当たっている、浄土宗のA住職からである。A氏は、遺族が立礼をなすべきかどうかは、すべての葬儀に共通する問題だという。

A氏はかつて、神奈川県での友人の父親の葬儀に連なった。座敷での葬儀だったため、喪主夫妻は立礼でなく、焼香台のそばに正坐して会葬者に頭を下げ続けた。葬儀の時間のほとんどは、父親の柩(ひつぎ)に背を向けていた。これが仏教葬といえるだろうか、とA氏は思い悩んだ。

自分が導師を勤めた最初の葬儀も、喪主立礼で進められた。それが地域の慣習ということだった。そこでA氏は改革を試みた。身内の中で耐えられる人がいればその人に、いなければ地域の人に葬儀委員長役を依頼し、喪主に代わって会葬者への立礼をしてもらう、という方式だ。

立礼方式がどれだけの地方で慣習化しているかは不明だが、A住職の改革は宗教界に、なんらかの示唆を与えないだろうか。

ところで以上のことは、宗教葬を前提とした論議である。ところが周知のように最近は、宗教抜きの葬儀を提唱したり、葬儀そのものをやめようと主張する出版物の刊行が続いている。それらの中には売れ行きがよくて、版を重ねるものもあると聞く。そんな本の一冊を刊行した出版社に、大阪府在住の僧籍を持つB氏から、電話があった。宗派は天台宗という。

知人を通じて導師のピンチヒッターを頼まれた、とB氏は語った。ある家で不幸があり、住職に導師を依頼した。「貧しいのでこれだけしかお布施が出せません」と告げると、その住職は「この金額では葬儀はできない」と言って帰ってしまった。そこでB氏に泣きついてきた、という。

B氏は快く引き受け、差し出されたお布施の半額を「生活費に」と喪主に返した。僧侶の間では「よくやった」という声と「そこまでしなくても」という声が半々だったとか。

新聞の投稿欄には、寺離れ、宗教離れを示唆する意見が相次いでいる。仏教界は危機的状況に置かれているといえよう。だがこうした事態を招いたのは、寺と檀家が断絶状態にあるからではないか。

人間は本来、宗教の救いを求めるものである。築地本願寺での鷹見さんの訴えは、遺族の悲しみを宗教者によって癒やされたいとの願いからなされた。宗教者は平素から檀家と接触し、その期待に応えるべきであろう。

A氏のメールは、次の言葉で結ばれている。「導師は、悲しみにくれる喪主親族の心を察し、式全般をコーディネイトするべきではないかと考えます」