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父母と子とは一体

2010年2月27日付 中外日報(社説)

三世紀中国、魏晋の時代に、世間の常識に異議申し立てを行なって奔放に生きた自由人のグループ「竹林の七賢」。その中でも、●康(けいこう)と並んでとりわけ個性的であったのが阮籍(げんせき)だが、彼に関する次のようなエピソードが『晋書』に伝えられている。

阮籍が実権者である司馬昭の下僚であった時のこと、母親殺しの事案が担当の役人から報告されると、阮籍は言った。

「ああ、父親を殺したのならまだよかった。母親を殺したとは」。同席していた者たちは、阮籍がきっと言い間違えたのだろうといぶかった。司馬昭も「父親殺しは天下の極悪人。それなのによしとするのか」と問いただした。

それというのも、旧中国の礼教社会においては、父親を筆頭とする男性の権威は絶対的であり、それに対して女性は、「未だ嫁がざれば父に従い、既に嫁いでは夫に従い、夫死しては子(息子)に従う」という「三従」の言葉が象徴的に示すように、男性の従属物としか見なされていなかったからである。

ところが阮籍は言った。「禽獣は母を知るも父を知らずというではないか。父親を殺すのは禽獣の類(たぐい)である。母親を殺すのは禽獣にも及ばない」。かくして衆人はようやく納得した。

「禽獣は母を知るも父を知らず」とは礼経の一つである『儀礼(ぎらい)』、その喪服篇にある子夏伝の言葉。鳥や獣には母親は分かるものの父親は分からない、自分の父親が分かるのは禽獣ならざる人間だけだ、との意味である。

ところで『儀礼』喪服篇の子夏伝には「父と子とは一体」なる言葉もあるのだが、いささか興味深いのは、感応の現象(テレパシー)は「父と子」との間よりもむしろ「母と子」との間に起こるもの、と考えられていた節のあることである。

例えば四世紀東晋時代の孫綽(そんしゃく)の「喩道論」(『弘明集』巻三)と題された論文は、「孝」について論ずるくだりに、「父と子とは一体、惟(こ)れ命をば同じくす(運命を共有する)」と述べた上、すぐに続いて例として引いているのは、「父と子」との間ではなしに「母と子」との間に起こる感応現象なのである。

「故に母、其の指を齧(か)み、児の心懸(はる)かに駭(おどろ)くは、同気の感なり」――母親が指をかむと遠方にいる子供の心臓が動悸を打つのは、母と子とが共有するところの一つの気が感応し合うからだというのだ。

基づくのは『捜神記』などが伝えるところの孝行者で知られた曽参(そうしん)の故事。曽参が先生の孔子のお供をして楚を旅していた時のこと、心臓が鼓動した。すぐに暇乞いをして家に戻ったところ、母親は言った。「お前が恋しくて指をかんだのだよ」。そのことを聞いた孔子は、「曽参の孝、精は万里を感ぜしむ」と言ったという。

そのためなのかどうなのか、『呂氏春秋』精通篇には、『儀礼』喪服子夏伝では「父と子とは一体」とあるのに「母」の一字を加えて、「父母と子とは一体」とする次の説述がある。

「父母の子に於けるや、子の父母に於けるや、一体にして両分、同気にして異息なり」

父母と子との関係、子と父母との関係は一つの体が二つに分かれたもの、同一の気を共有しながら呼吸を異にするだけだというのである。だが、そこに引かれているのはやはり母親と息子との次のような話なのだ。――申喜(しんき)なる者、母親と生き別れとなった。ある時、門前で歌う物乞いの声に悲しみの気持が込み上げ、招き入れて子細を尋ねてみたところ、何とそれは母親であった。

これとよく似た話が『南史』の孝義伝にもある。五世紀のこと、幼くして母親と生き別れとなった■道愍(ゆどうびん)は、母親を探し求めてはるばる交州(現在のベトナム領)にまでやって来た。ある村の一軒家に宿を借りた翌朝のこと、一人の老婆が薪を背に負って戻って来ると、道愍の心臓が鼓動した。かくして母親との再会がかなったのであった。

鳥、獣ならぬ人間にとっても、「父と子」との結び付きに比べて、「母と子」との結び付きはやはり緊密なのであろうか。

●=禾偏に尤の下に山

■=广に臾