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受験シーズンに想う

2010年2月6日付 中外日報(社説)

大学進学を目指す若者たちには、一月十六日と十七日に実施された大学入試センター試験に始まって、ここしばらくは苦難の日々が続くのであろう。少子化に伴う現象として、受験者全員が大学に入学できる時代の到来などといわれはするものの、志望する大学に入学するための苦難は、依然として並大抵のものではあるまい。

ここで想起されるのは、中国の歴代王朝の主導の下に、前世紀の一九○四年に至るまで連綿として実施された高等文官試験の科挙のことである。建前として、科挙は万民に開かれた制度ではあったけれども、それに合格するためには激烈な競争を勝ち抜かなければならなかった。

七世紀初の隋の時代に始まった科挙は、次の唐代に至ってようやく軌道に乗り始め、幾つかの科目に分かれる中で最も人気が高く、それだけに難関であったのは、詩や賦などの文学作品の制作の能力を問うことを主眼とする進士科であった。

進士科に次ぐのは、「経義」すなわち儒教の古典である経書の意味を問うところの明経科だったが、明経科の人気は進士科に遠く及ばなかった。

そのため、次のような諺が行なわれもした。「三十の老明経、五十の少進士(三十歳の明経及第者はもう老人、五十歳の進士及第者はまだ青年)」「香を焚いて進士を礼し、幕を設けて明経を試す(焼香して進士志望者を丁重に遇し、テント張りの中で明経志望者を試験する)」

白楽天の文学の盟友として知られる元●(げんじん)は、貞元九年(七九三)の明経科の試験に首席で合格し、意気揚々と詩人の李賀のもとを訪れたものの、「明経科の及第者のごときが、どうして李賀先生に面会にやって来たのだ」、そのように取り次ぎの門番から冷たくあしらわれ、門前払いを食らわされたという話もある。

ところで明経科の試験は、帖文(ちょうぶん)と問義と時務策をその内容とした。時事問題に当たる時務策はともかくとして、帖経とも呼ばれる帖文はおよそ児戯に類する試験方法であった。

「帖」とは付箋のこと。すなわち経書のある一行だけを受験生に示し、その一行のうちの「帖」を張って隠した三文字を口頭で答えさせたのである。幼稚で愚にもつかぬ穴埋め問題、というほかはない。

また問義は合わせて十問。問義とはそもそも経書の大義を問うということなのだが、しかしそのような大理想からはほど遠く、十問のうちの五問には注の文句を丸写しすることが、五問には疏の文句を丸写しすることが求められたのであった。注とは経書に施された第一次注釈、疏とは注を敷衍した第二次注釈であって、どちらも標準とすべきテキストがいわば国定教科書として定められていたのである。

このような試験の方法に異議を唱える者がいなかったわけではない。例えば九世紀のごく初期、唐の徳宗時代の人である柳冕(りゅうべん)は科挙試験の総責任者である権徳輿(けんとくよ)に次のように進言した。

経書の注と疏を頭に詰め込んでいるだけの人間は「小人の儒(つまらぬ学者)」であり、「章句の儒(文字づらだけに拘泥する学者)」にしかすぎない。今後は、経書の本義に明るく、儒教の道に合致した「君子の儒」、そのような人物を選抜することを明経科の試験の第一要件とされるように、と。

しかしながら権徳輿は、「明経者は仕進の多数なり」、すなわち明経科には受験生が殺到して、その合否を決めるのは大変な手間であると述べた上で、「注疏なる者は猶お以て質験す可きなり。不(しか)らざれば儻(ある)いは有司は情に率(したが)いて其の手を下上せん」と回答した。

注と疏についての知識によって学力を試すことはやはり可能であり、もしその方法によらなければ、担当の試験官は自分の考えに基づいて成績判定を行なうであろう。つまり従来の方法によってこそ客観性が担保されるのであり、さもなければ試験官の主観に左右されることとなるであろうというわけである。

論述形式の出題が敬遠され、暗記力を試すことが主眼とされがちな現在の大学入試。驚くべきことにそれと同様の事柄が、主観を排除し、客観性を担保するという大義名分の下に、千年以上も昔の中国においてすでに行なわれていたのであった。

●=禾偏に眞