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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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仏の教えに生きる覚悟

2010年2月4日付 中外日報(社説)

政治が迷走している。国民の熱い支持を得て政権を手にした民主党だが、その支持・不支持が、はや逆転した。首相と政権与党の実質的トップとの金をめぐる問題は、自民党となんら変わるところがない。

それにウンザリした国民に追い打ちを掛けるかのように、ここへきて国会が混乱している。一月二十九日付日本経済新聞は、――政治主導をめざした国会は、学級崩壊ならぬ「国会崩壊」の様相さえ呈してきた、と書き、下品なヤジ/携帯熱中/嫌がらせ、の見出しを掲げた。

同記事によれば、野党委員の質問に腹を立てた国土交通相が、――ポケットに手を突っ込んだまま答弁、仁王立ちしてにらみつけた。……別の閣僚の答弁中、熱心に携帯電話を操る閣僚もいた、という。

「目くそ鼻くそを笑う」わが国の政治は、二流イヤ三流と評価されても仕方あるまい。それをしかし、国民意識の反映だといわれたら、選んだ国民も立つ瀬がなかろう。

そして、かつて一流を自負した日本経済もまた、低迷・混乱・下降が続いている。内需拡大といわれても、何もない時代ではないから、需要の喚起はちょっとやそっとの知恵ではどうにもなるまい。

「ミネルバの梟は夕暮れに飛び立つ」というけれど、日本の政治も経済もまだ昼下がりらしく、真の知恵者の出現は、今しばらく待たなければいけないのかもしれない。

政治もダメ・経済もダメとなれば、ここは一つ、わが宗教の分野こそ奮起が望まれ、その力量の発揮が期待される。そう思っていた矢先、実に悲しい投稿を見た(一月十三日付朝日新聞「声」欄)。

問題の投稿の見出しは、「読経中、携帯操る僧にあぜん」。一読して筆者自身も憤慨に堪えなかった。仏教界に対する深刻な問い掛けでもあるので、その内容をあえて詳しく紹介することにしたい。

投稿者は昨年暮れ、菩提寺の僧侶を招き亡母の二十三回忌の法要を営んだという。ところが厳粛であるべき読経の最中、突然、僧侶の携帯電話が鳴り出した。すると、僧侶は読経しながら、片手で携帯電話のボタンを操作し始めたのだ。

読経はよどみなく続いたが、どうやら電源を切らなかったようで、再び携帯電話が鳴り出す。今度も僧侶は何のためらいもなく携帯電話を手に取り、読経しながらメールか何かを打っている様子だった。

投稿者をはじめ参列者は僧侶のあまりにも非常識な振る舞いにあぜんとして、法要終了後も言うべき言葉が出なかったという。

「読経の最中くらい携帯電話を切っておくべきです。仏さまも驚かれたことでしょう。仏教界はどうなっているのでしょうか」とこの投稿は結ばれている。

内容もさることながら、七十八歳という投稿者が匿名なのも、見逃せない。投書による菩提寺との関係悪化を恐れておられるのだ。こんな不届きな輩は仏教界の例外中の例外だと思いたいが、この節、かかる例外中の例外をも出さぬ覚悟が仏教界に求められているのではないか、と考える。

それというのも、こんな不届きがどうやら、例外中の例外でもなさそうだからだ。かつて僧侶同士のこんな軽口を聞いたことがある。

「お前のところのご本尊は何だ」「阿弥陀さんだよ」「うそだろ。"フドーサン"だろ」

この軽口には毒がある。先の携帯僧侶といい、この不動産にまつわる金銭勘定に心奪われる僧侶といい、仏教者が一義的に担っている〈いのち〉への自覚がまるっきりない。

仏の教えに大きく生きる覚悟を求めたい。