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賀状への返事に蕗のとうを同封

2010年1月28日付 中外日報(社説)

お年玉付き年賀はがきの抽選で、いい賞品が当たりましたか? ひところ、年賀状を数多く出す人は、圧倒的に活版印刷が多かった。朝日新聞編集委員だったAさん=故人=が言った。「印刷の賀状には、一言でよいから手書きの文字を入れるべきだ。それが年賀状の価値を高める」と。

筆者は今年、約五百通の年賀状を頂いた。その約八割が、パソコン印刷の美しい図柄である。頂いた賀状に批判めいたことを書くのは申し訳ないが、今は「おめでとうございます」の文字も、トラの絵柄も、ソフトから難なく取り込める。美しいことは美しいし、それぞれに趣向を凝らしているが、それにもかかわらず個性がないというか、どれもこれも同じような印象を受けがちだ。

毎日新聞の今年初めての短歌欄で、伊藤一彦選のトップは「一筆も手書きのあとのない賀状 住所名前も他人のごとし」=川俣英男=だった。「手書きのあとの少しもない賀状のよそよそしさを端的に表現」との選評である。

各紙誌の読者投稿欄で論議されたのは、子どもや孫の写真を入れることの是非だ。本人にとってはかわいい幼児も、他人の目にはただの子どもにしか見えないという。

週刊誌だったと思うが、妻や母が反対するのにわが子の写真を入れたくて、友人宅のパソコンでこっそり作成、投函(とうかん)した。その一通が転居先不明で自宅に返送され、とうとう妻にバレてしまったという子煩悩パパの話題が紹介されていた。

筆者の後輩の女性新聞記者は先年、アラフォーの年齢で女児に恵まれた。夫婦の心を照らす存在だとして「あかり」と名付けたと知らせてきた。その事情を知っていると、会ったことはなくても、成長ぶりが気にかかる。今年の賀状の「あかり」ちゃんは、二歳半というのに母親に似ていて、幼稚園の年長組のようなしっかりした表情だった。子どもの写真の効用もケース・バイ・ケースということではないか。

読売新聞の読者欄では、福地美佐子という人が「あじわいのある手書きの年賀状」と題して、要旨次のような内容を寄せていた。中学生になった娘さんが、友達やクラブの先輩からかわいい図柄の年賀状をもらい「枚数は私を超えた」と、娘の世界の広がりを喜んだ後に「今どきはメールを年賀状代わりにする人も多いと聞くが、娘や友人たちはイラスト入りや凝った手書きの年賀状を作っていた。手書きは手間や時間がかかるが、あじわいがあると思う」と記す。

さらには「中には、年に一度の近況報告をする人もいる。だからこそ相手の顔を思い浮かべながら、メッセージを書きたいものだ」と締めくくる。

先に記した伊藤一彦選の短歌には、次の二首も採られていた。「手書き派は少いけれどガンバロ!と友との賀状手書き同盟」=伊藤慶。「数秒で読み捨てられるかも知れぬ年賀葉書を丹念に書く」=山上秋恵。達筆は達筆なりに、悪筆は悪筆なりに、あの人からの賀状とすぐ分かる。

こう言ってはなんだが、もらってあまりうれしくないのは「謹賀新年・旧年中はひとかたならぬお世話になりました・本年もよろしくお願いします」とだけ印刷された型通りの賀状である。Aさんが言ったように「孫が何人になりました」「最近は杖(つえ)をついています」など近況が書き添えてあると、温かみのある賀状になるのに。

年賀状への返事を「返り年賀」というとか。筆者が受けた返り年賀で強く印象に残っているのは古い歌友からの「神社への詠進歌に入選しました」との報告。もう一通は山の寺の前寺庭さんから「立春が近づきました」と封筒に蕗のとうを入れて送ってくれたものだった。もちろん、どちらも手書きである。