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孝子と忠臣

2010年1月26日付 中外日報(社説)

『南斉書』と『南史』の孝義伝に、崔懐順なる人物に関する次のような話がある。

崔懐順の父の崔邪利は南朝宋の魯郡太守であったが、五世紀の中ごろのこと、北朝の北魏の捕虜となり、北中国に拉致された。懐順は悲しみのあまり、最愛の妻を離縁し、官僚としての地位をも捨て、喪に服するのと同じようにして日を過ごした。いつしか北魏王朝に官僚として仕えることとなった父親から、そんなにまで悲嘆に暮れるではないとの書簡が国境を越えて届けられてきたものの、それはかえって懐順の悲しみを一層増すだけのことであった。

ところで、懐順の大叔父である崔模も北魏に拉致されたのだが、崔模の息子たちは懐順のように妻を離縁するわけでもなく、宋王朝に仕える官僚としての地位を捨てるわけでもなかった。

その後、宋の大明年間(四五七-四六四)になって、懐順たちの一族の崔元孫が宋王朝から北魏王朝に派遣される使節に選ばれ、北魏の人物から次のような質問を受けた。「崔邪利と崔模の二人は共にあえなくもわが王朝に投降することとなった。ところが、二人の息子の世に処し方がまるで異なるのは、一体どうしたわけなのか」

このような質問に、崔元孫はこう答えた。「王尊は驥(はやうま)を駆り、王陽は車を回(めぐ)らす。忠と孝と並びに弘め、臣と子と両(ふた)つながら遂げしめんと欲す」。崔元孫がこのように答えたのは、『漢書』王尊伝に見える故事に基づいてのことである。

前漢時代のこと、益州刺史となった王陽は、州内の巡察に出かけて厳道県(四川省●経県)の九折阪に差し掛かると、そのたびに「先人の遺体を奉ず、奈何(いかん)ぞ数(しばし)ば此の険に乗(のぼ)らんや」と嘆息して車を返した。九折阪は、その名の通り、つづら折りの急坂であって、両親から頂いた大切なこの体、こんな険所においそれと登れるものかというのだ。

「身体髪膚、之を父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり(肉体と髪の毛、皮膚は父母からの賜わりもの。それを傷つけまいとするのが孝のそもそもの出発点である)」とは『孝経』の開巻冒頭に置かれている言葉である。

だが王陽の後任の益州刺史となった王尊は、九折阪にやって来ると、「これが王陽どのが畏れた道か」と尋ね、部下が「そうです」と答えると、馭者にこうハッパを掛けた。「馬に鞭を入れろ。王陽は孝子、王尊は忠臣だ」。わしは王朝の官僚として職務に精励する忠臣、忠ならんと欲すれば孝ならず、というわけである。

崔元孫はこのような故事に基づいて、崔模の息子は忠臣、一方の崔懐順は孝子、わが崔氏の一族には忠のモラルを実践する若者と孝のモラルを実践する若者の両者が存在するのだと答えたのだが、これにはまだ後日談がある。

ほどなく、崔氏一族の出身地である清河郡東武城県(山東省武城県)が北魏の領土に帰すと、崔懐順ははるばる北魏の都の平城(山西省大同)まで父親を訪ねに出掛けたものの、父親はすでに死亡しており、柩を車に載せて故郷に引き揚げた。

その道中、「氷雪を徒跣し、士気は寒酷なるも、手足は傷つかず」、ために人々は「孝感」、すなわち彼の孝心が天に通じたのだとたたえたという。

ところで一方の崔模一族について、北魏の歴史をつづる正史の『魏書』は崔模の伝を設け、そこに次のような話を伝えている。

崔模にはそもそも妻の張氏との間に沖智と季柔の二人の息子があった。ところが北魏に拉致された崔模は、天子から新たに妻の金氏を与えられ、息子の幼度が生まれる。沖智兄弟が無理をして集めた資金を密使に託し、どうにかして父親を連れ戻そうと画策したところ、母親の張氏は冷たく言った。「お前たちのお父さんは思い切りの悪いお人、そんなことをしても無駄ですよ」。果たして張氏の言った通り、金氏と幼度を捨てるのに忍びない崔模は南に戻ることを肯んじなかった。

孝子の思いは天に通じ、忠臣の策は父に容れられなかった、ということになるだろうか。

●=榮の木が水