ニュース画像
開基の妙達上人像を開眼する五十嵐住職
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

遺言守って十年 寺に集う文化人

2010年1月9日付 中外日報(社説)

神戸市兵庫区の浄土宗宝地院(中川正興住職)は、平清盛が都を福原京に移した時、平頼盛の邸があった場所に建てられたと伝えられている。その由緒ある寺で昨年十二月二十七日夕刻から、二十八回目の「宝地院大学忘年会」が開かれ、神戸地方在住の芸術家や文化人約五十人が集まった。本堂地下のホールで津軽三味線や奇術、歌曲、ハワイのフラダンスなど、肩の凝らない芸能を披露し合い、楽しいひとときを過ごした。世話人の中心的存在は、洋画家の中西勝・二紀会常任理事である。

「宝地院大学」という学校があるわけではない。先代住職の故・中川浩安氏と親交を結び、人間的な感化を受けた人々が、同窓会のような気分で集いを重ねてきた。誰言うとなくその人脈を宝地院大学と呼ぶようになった。年に一度、浩安氏を偲んで開く忘年会が続いている。

その人脈には、二つの流れがある。その一つは、かつて宝地院で居候生活をした人々だ。

正興現住職の伯父・浩安氏が昭和二十一年、中国から復員した時、寺は前年の空襲で焼失、両親は相次いで死去していた。浩安氏は中学生だった弟の安正氏と協力、焼け跡に仮小屋の本堂を建てることからスタートして、少しずつ寺の再建を進めた。

二十四年、神戸市内にはまだ住宅が少なく、下宿探しに苦労する高校生や大学生が多かった。浩安氏が知人の息子を一人預かったのをきっかけに、一人また二人と学生が転がり込んできた。庫裡を再建したころには、食客は十人を超えた。浩安氏は「御本尊の前では住職もまた居候だ。遠慮するな」と言い、部屋代も食費も取らなかった。

食べ盛りの学生のための食料調達に苦労した安正氏は昭和六十三年、浩安氏に先立って五十九歳で死去する。現在の正興住職はその子息である。

生前の浩安氏は「臨済宗の山田無文老師のまねをしただけ」と語っていた。後に妙心寺派管長や花園大学学長を務めた山田氏は、当時は神戸市内の祥福僧堂師家で、浩安氏と親交があった。「僧堂では飛び入りの客があっても、来る者拒まずでいやな顔をしないで迎える。その長所を学ばせていただいた」と浩安氏は謙虚だった。

学生たちの中には、卒業後も神戸市内の役所や会社で活躍する人が多く、同じカマの飯を食った縁で「釜めし会」を作った。

もう一つの人脈が「八方会」だ。昭和三十年代、元町の赤ちょうちんで飲み友達になった中西画伯をはじめ、兵庫県知事だった阪本勝氏、江戸川乱歩賞を受けたばかりの陳舜臣氏らが、ある年の十二月三十日に忘年会をやろうと思ったが、会場がない。浩安氏に相談すると「うちでやれ」。それが宝地院大学忘年会の第一歩となり、「釜めし会」も加わって、いつしか寺の年中行事として定着、浩安氏の人柄に惹かれて寺に集まる「浩安塾」グループも合流した。

中西画伯によると大阪から司馬遼太郎氏、東京から筒井康隆氏が参加したこともある。「今年も元気で過ごすことができたなと、みんなでみんなを祝う会、それがこの忘年会です」

阪神・淡路大震災で本堂が傾いた年は休んだが、その他の年は休まず続けてきた。総本山知恩院顧問を務めた浩安氏は、平成十一年に数え年八十歳で死去するが、遺言の一つが「宝地院大学忘年会はいつまでも続けること」だった。「この遺言に背いたら浩安和尚は化けて出ると言ったとか。そうならぬよう、毎年こうして盛り上げています」と事務局役の写真家、小島知光氏。没後十年、遺言はきっちりと守られた。

すべての人々に寺を開放する浩安氏の生き方に、人生の意義を学び合う場としての「宝地院大学」が、さらに発展することを期待しよう。