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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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いずこに求める"ついのすみか"

2009年12月19日付 中外日報(社説)

昭和五十九年四月、大阪府富田林市の商店街の一角に、カレーの店「マイウェイ」を開店してから二十五年。力強い組織に発展した社会福祉法人「マイウェイ福祉の会」=原田邦夫理事=はこのほど、発足二十五年を祝う記念誌を発行した。家族や職員、支援者らが四半世紀の歩みと将来への展望をつづる手記、座談会記録などが五十四ページの誌面に詰まっている。

軽度の知的障害者を「福祉の会」では「生活者」と呼ぶ。その人々の社会参加の第一歩として発足したカレーの店は、今年一月に閉店するまで、富田林市民や市職員労働組合の支援で順調な業績を挙げた。

さらに「福祉の会」は、生活者が安心して暮らせる共同のホームとして平成十二年十月、大阪府河南町に三階建て、延べ千七百平方メートルの「草笛の家」を建設した。その経過は平成十三年二月二十四日付の本欄でお伝えした。

九年後の現在、「草笛の家」は増築され、さらに姉妹施設として大阪府枚方市に「ワーク草笛」、同茨木市に「ワークきらり」が生まれ、生活者は約百十人に増えた。一部は施設を出て四ヵ所のグループホームやケアホームに住む。

障害者自立支援法の精神に沿って、生活者が業績を挙げているのは、クリーニングだ。仕上げ、折り畳みなどの特別な工程は本職が担当するが、その他の流れ作業は生活者がさばく。この収入が自らを支える資金となり、福祉の世界で注目されている。

「草笛の家」は建てる段階では、候補地から受け入れを拒否されたこともあった。しかし施設を積極的に迎え入れた河南町では、小学生が見学に訪れたり、運動会に生活者を招いてくれるなど、地域との理解と交流が深まっている。だから本稿は、「福祉の会」二十五周年おめでとう、との筆致でつづるべきかもしれない。しかし、発展段階にある今こそ、あえて記しておきたいことがある。

二十五年たったということは、生活者も、それを支える家族も、それだけ年を取ったということだ。家族や支援者らで組織する「マイウェイ」後援会の役員の一人は言う。「二十五年前は若かった。家族たちには福祉の道を切り開こうという気力があった。社会全体も右肩上がりの時代だったし……」。その気力も年齢には勝てない。

家族の一人は言う。「一から寄付を募って、われわれの手で立派な施設を実現しようと、がむしゃらに突っ走ってきました。あのころは現役で働いている家族が多く、生活にもゆとりがありました。でも今は、みんな年金生活です」

親や兄弟姉妹が世を去った後で、生活者たちはどこを"ついのすみか"とすればよいのか。"ついのすみか"のつもりで建てた「草笛の家」は、法体系の改定で、生活者たちを最後まで抱き止めてくれる場ではなく、契約によって利用する施設となった。

生活者が"老後"を迎えた時、どうすればよいか。特別養護老人ホームに入って、障害者年金で暮らす道が考えられる。だがある福祉関係者の試算によると、特養ホームでの必要な生活費は、年金額をはるかに上回るという。しかも各地の特養ホームは、何年も順番待ち状態である。「でも政府は、この実情をいつまでも放置しておけないと気付くでしょう。その希望が一筋の支えです」

これは「マイウェイ福祉の会」だけでなく、全国の障害者施設に共通するものであろう。

最後に、宗教にかかわる話題を一つ。「草笛の家」で生活者の一人が亡くなった。しかし身寄りがすぐに来られない。ある僧侶が事情を知り、ボランティアで導師を勤め、職員と仲間で送った。「いい葬儀をすることができた」の声が上がった。宗教者の温かい配慮が福祉向上への道の一つといえるだろう。