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文明間対立を超える"平和"へのビジョン

2009年12月17日付 中外日報(社説)

ノーベル平和賞の受賞演説で、アメリカのオバマ大統領が「世界に悪は存在する。だから戦争は避けられない」という趣旨のことを語ったのは印象的だった。ブッシュ前大統領は敵対するイスラーム勢力を「悪」と呼んだ。こうした言い方に危惧を持つ一つの理由は、自分の側が「善」であり「正義」があるという信念が、ある種の宗教的な信念に基づくものではないかと感じられるからだ。

現在のアフガニスタンでのアメリカの戦争が妥当であるかどうかについてはさまざまな考え方があり得る。ここではそれについては論じない。軍事的な勢力拡充を図るイスラーム過激派に対して、軍事的にそれを抑え平和なアフガニスタン統治を目指すという言い方なら賛同を得やすいだろう。だが、たとえ妥当な戦争であったとしても、それを「悪との戦い」と特徴づけるのは適切だろうか。

現在のアメリカやイスラエルとイスラーム諸勢力との対立の根が、パレスチナ問題にあることは否定できない。もちろんほかにも中東から南アジアに至る地域のさまざまな要因が絡み合って、問題が複雑に展開してきたことも事実である。だが、パレスチナ問題にしろ中東・南アジア地域の問題にしろ、それが何らかの「悪」の勢力によるものでそれと戦うことで解決に向かうという考えは、世界の大多数の人々から賛同を得られないだろう。

「絶対平和主義」はなかなか実行しにくい立場であり、実行できないとすれば絵空事にすぎないではないかという議論には一定の説得力がある。そこからキリスト教世界では「正義の戦争」は支持できるという議論、すなわち「正戦論」が育てられてきた。二十世紀の戦争で西洋キリスト教勢力が平和をもたらしたと感じ取られたことによってこの理論は後押しをされ、今も強い支持を得ている。

だが、文明間の対立が暗い影響を及ぼしている現在のアフガン戦争において、「悪との戦い」を主張することは誤解を招く。アメリカが一方的に起こしたイラク戦争は正義の戦争ではなかったと感じている人々は少なくない。とりわけ世界各地のイスラーム教徒は多数のイラク国民が殺害され、今も戦争の傷跡に苦しんでいることを強く意識している。

「正義」の名によって犠牲を拡大してきた責任も考える必要がある。戦争から生じる苦しみは「悪」と見なされた特定勢力だけに帰せられるべきものではないだろう。

このように敵・味方を峻別する考え方は、アメリカやそれに対抗するイスラーム過激派だけの問題ではない。戦争当事者だけの問題でもない。長い歴史の中で形成されてきた宗教的な世界観そのものの見直しを促すものではないだろうか。国家や宗教教団のような特定集団と結び付いたとき、歴史上の宗教はその集団の利益にかかわる事柄を「正義」や「悪」の名によって飾り、内実を覆い隠すことを繰り返してきた。戦争が宗教的な語彙で正当化されるのは、そのような好ましくない伝統を引き継ぐものだ。

平和を願う現代人は、こうした歴史上の宗教の弱点を反省し、より永続的な平和を、またより堅固な信頼関係を築くにはどうすればよいのか、じっくりと考えようとしている。私たちもオバマ大統領に成り代わって、受賞演説の草稿を考え直してみてはどうだろうか。