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小沢幹事長発言と政治家の宗教感覚

2009年12月3日付 中外日報(社説)

民主党の小沢一郎幹事長が十一月十日、高野山金剛峯寺で松長有慶座主と会談した後、自らの宗教観を述べたが、これが報道されると、いささかの反響を呼んだ。キリスト教を批判するような見解が含まれていたからである。

すなわち、キリスト教は「排他的で独善的な宗教」であると表現し、さらにこうしたキリスト教を背景とした欧米社会は行き詰まっているという趣旨のものであった。イスラム教についても、キリスト教よりはましだが、やはり排他的と述べたとされる。

その一方で仏教に対しては、「人間としての生きざまや心の持ちようを原点から教えてくれる」と肯定的な見方を示したという。一種のリップサービスとして受け止められる面もあるが、どうもそれだけでもなさそうである。

日本キリスト教連合会は、この発言に対し、早速翌十一日付で抗議文を送って、発言を撤回するように求めた。しかし、小沢氏は、根本的な宗教哲学と人生観が違うということを述べたのであるとして、撤回に応じなかったとされている。

個人的にどのような価値観を持とうと、それは自由である。だが、政権与党の幹事長としての発言となると、予想外の波紋を生むことがあり得る。発言内容が現在のようなグローバル化した社会の中で、適切な宗教観であったかどうかということも疑問だが、何よりも、それが日本の代表的な政治家の言葉として、世界に発信されてしまう影響を考えねばならない。

少しでも現実の宗教の姿について理解しようと努めるなら、キリスト教とか仏教とか、ひとくくりにして宗教を見てゆく態度そのものが、非常に問題が多いと言わざるを得ない。キリスト教は原理主義的傾向が強いものから、非常に緩やかな信仰形態まで、実にさまざまである。仏教も宗派意識がかなり強い宗門もあれば、非常に弱い宗派もある。

一つの宗教を自分の宗教とすることをもって排他的と考えているのだとすると、「日本の常識は世界の非常識」と冗談交じりに言われるような類のことに近くなる。そのことと、人間としての生きざまや心の持ちようを教えてくれることとは別次元の話である。

小沢氏の例に限らず、政治家の宗教観には、時々、首をかしげるようなものがある。個人的な価値観が偏っているという以前に、知識不足が目立つように見えるケースが少なくない。例えば、カトリックとプロテスタントとの区別がなされていなかったりする。イスラム教と聞くとテロしか連想できない、というようなことでは困るのである。

学生などであれば、まだ笑って済ませられることかもしれないが、政治家が乏しい知識のまま発言することは、場合によっては国際問題にまで発展しかねない。

今回のような場合は、仏教関係者は褒められて喜ぶというような筋合いのことでもない。また、抗議する側のキリスト教関係者、あるいはもし不快に思うイスラム教の関係者がいたとすれば、こうした宗教観の浅薄さを指摘し、改善の方法を考えるべきであろう。これからの政治家には、もっと深いレベルの宗教理解が必要とされるのである。

宗教批判も充分調べ、根拠をもってなされるものなら、むしろ歓迎すべきである。しかし、一般的にいえば、選挙の際の集票も意識している恐れがある宗教観の提示などに対しては、宗教関係者は客観的なまなざしを忘れるべきでない。このような発言に便乗したような論が交わされないことが、まずは求められる。