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空虚な"多忙"と充実した"無為"

2009年11月21日付 中外日報(社説)

多忙だ繁忙だと慌ただしい日々を送る。われわれの日常生活には目的があり意図があり予定があり当てがあって、それをこなすために忙しく立ち回る。まるでそこに人生の充実があるかのようだ。

だから自分の思うままにならぬ時間、自分を置き去りにして勝手に推移する、いわば他人中心の時間は虚しく感じられる。

人生の意味を問うというとき、人はしばしば他人を巻き込みあるいは排除して、困難と取り組み苦難を乗り越え自分の意図を実現する。そこに意味を認め、反対に無為に過ごす時間を空虚というのではないだろうか。人生が虚しいとはしばしばそういうことではないだろうか。

それで世事に没頭する時間に充実が見られることになる。無為は無駄に等しいわけで、実人生の役に立たない時間は無意味であり空虚であり不安であり、一刻も早く過ぎ去ることが望まれる。

詩人といわれる人の中には、逆に日常性の外に出て無為を求める人間がいる。石川啄木の歌集『一握の砂』にこういうものがある。

「大木の幹に耳あて/小半日/堅き皮をばむしりてありき」

何ごとかを成し遂げるために忙しく立ち働いている人間には思いも寄らない「小半日」である。実際、短歌としても理解しやすいものではない。

ところで愁いに満ち心に傷を抱く詩人が孤独と無為を求めるのは珍しいことではない。『一握の砂』にはこういう歌もある。

「あたらしき心もとめて/名も知らぬ/街など今日もさまよひて来ぬ」

そういえばドイツの詩人へルダーリンにもこういう詩があった。

「住み慣れし町にも何ぞ/あたらしきものやあらむと/街角をへめぐれど/こころ慰むものもなし」

しかし木の皮をむしって小半日を過ごすとは、どうした気持からの振る舞いだろうか。

子供なら、しかられたりいじめられたりして、誰もいない所へ行って泣き、泣きやんでぼんやり過ごす時がある。泣くのをやめてもまだ家に、あるいは友達の所に、帰りたくはない。

ひとりで木に凭(もた)れていると、普段は見過ごしていた周りの自然が不思議な匂いと現実感をもって立ち現われてくる。恐ろしいとも頼もしいとも懐かしいとも言いようのない存在感である。

そこで子供は木や草や蟻を相手に遊び始める。少しはいじめてもみる。「泣きぬれて蟹と戯れ」た啄木は子供心を失わずにいたのだろうか。

こうした解釈は可能であろう。しかし、まるで実生活の役に立たない時間にある充実を経験する心の表現としてそのまま読めばよい、余計な解釈は要らないともいえるだろう。

ひとり木の皮をむしって二、三時間を過ごすとはすてきな経験ではないか。とにかくわれわれは忙し過ぎるのだ。あれやこれやに心を奪われて、自然を、また自らの心自身を経験する時を失っている。忙しがるのは、自分の心を見詰める不安を恐れ避けているからかもしれない。

文学もそうだが、特に宗教は心を知る道である。無病息災、商売繁盛という方向で人間性の充実を約束する宗教も一方にはあるが、われわれは自らの心に対峙する"無為"の時の価値ももっと重視するべきだろう。