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宗教の「公益」性とは

2009年10月31日付 中外日報(社説)

「邪教」といえば、日常会話ではもはやあまり使われない言葉だろうが、中国では「カルト」のことを指す。日本でも昔は淫祠邪教、邪宗門といった言葉が用いられていたことは周知の通り。社会的に深刻な問題を引き起こしている宗教は日本にも現に存在するから、中にはそれを指して「邪教」だ、と糾弾したい人もいるかもしれないが、社会的レッテルとしては、"淫祠邪教"という言葉自体は死語に近いだろう。

一方、「カルト」は、といえば、実はこの概念も用いられ方には問題が含まれる。限定的に「破壊的」という形容を付して世俗・社会生活に対する害悪を強調する言い方がある。これなどは社会問題化しない「カルト」も想定して批判のターゲットを絞っているわけだろうか。ただ、「破壊的カルト」などと限定しないで、単に「カルト」と三文字で片付ける方が一般的である。たとえ曖昧で問題をはらんではいても、使いやすい言葉は独り歩きするのである。

本紙でもかつては「カルト」をなるべくカッコ付きで用いる配慮をしてきたが、今や、いちいちカッコを付けて表記するのはかえって不自然な印象を与えるようになっている。うっかりすれば、「カルト」を弁護するかのように曲解されかねない。

以上は前置きであって、実はここで取り上げたいのは「公益」という言葉だ。

『広辞苑』第六版は「公益」を「国家または社会公共の利益。広く世人を益すること」と定義し、反義語に「私益」を挙げている。私益に対立する概念といえば、「カルト」のように難しい問題はないようにも見える。

しかし、「宗教」と「公益」「国家または社会公共の利益」の関係となると、問題は微妙になる。

むろん、価値観は人によって様々だから、宗教の目的は公益に奉仕することだ、と考える人がいても不思議はない。しかし、宗教の多くは、特定の国家や時代・社会を自らの価値の源泉と見なしているわけではない。

例えば、戦時下には"聖戦"遂行への積極的な協力が「公益」であった事実を否定する人はいないだろう。多くの宗門では戦時教学などによって公益奉仕は裏付けられたが、今ではそれは間違っていたとされる。つまり、それぞれの宗派が拠って立つべき宗教的価値は当時の国家あるいは社会の公益とは対立していたはずだ、と考えられているわけである。

これは、今、引き合いに出すには極端に過ぎる例だったかもしれないが、宗門が社会活動を積極的に行なうために教学を見直すべきだ、という議論も一部にあるようだ。それを聞くと、「待てよ」と少し立ち止まりたくなるのである。

「宗教の公益性」についての議論をすべてチェックしたわけではないが、見識ある論者が宗教が公益を語ることに含まれる様々な問題を充分認識していることは当然だろう。だから、それに注意を促すのは釈迦に説法の類かもしれない。

しかし、ここであえて「公益」にカッコを付けてはどうか、と提案するのは、現在の「宗教の公益性」の議論が、宗教の現状に対する危機意識を背景としつつ、税制の問題を視野のどこかに置いていることが明らかだからだ。

仮に"優遇税制"(この理解自体に実は問題があるが)を守るために公益性を考え、その側面を重視する、ということならば、本末転倒に陥るのではないか。そして、仮に、そのような発想が少しでもあれば、国家の"公"に意識が傾くのは避け難い、と思われるのだがどうだろうか。

宗教の存在それ自体に公益性があることは疑えない。ただ、宗教の公益性を具体的に論じ、さらにそれを宗教界へメッセージとして発信する時、「公益」をカッコに入れておくという意識を常に持ち続けることはやはり必要だろう。