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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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全員いす席で…彼岸の結願法要

2009年10月17日付 中外日報(社説)

「私どもの所属宗派には"教化する"意識がほとんどありませんね。私の自坊でも、年中行事を繰り返すばかりです」と言う住職がいる。教化をしなければ、寺の雰囲気が沈滞するのではなかろうか。九月のお彼岸の結願の日、大阪市近郊のその寺を訪ねた。予想に反して、本堂は約百人の檀信徒で満堂。熱っぽい空気があふれていた。

高齢化が進むにつれて、膝(ひざ)が痛むという人が増えてくる。若い人は、畳に坐る生活をしない。その気配を察した住職は、阪神・淡路大震災で傷んだ本堂を修復する時、床を洋間風に改めて、檀信徒席をいす式にした。「近隣の寺院もいす派が増えました。自前のいすのない所は、レンタル利用です」

これまで、ややもすると「お経は、ありがたい所をなるべく短く」と注文する檀信徒がいたのは、長時間の正坐が苦痛だったからではないか。「教化意識がない」というが、楽な姿勢で仏前の盛儀にあずかることができるのは、文字通りの"法楽"だ。何よりの教化といえよう。

ある本山が毎年、新聞社と共催して開いてきた夏季大学講座は、昨年までは畳敷きの客殿が会場だった。正坐できない人は折り畳みいすを持参して、廊下で聴講していた。その実情にかんがみて、今年からは隣接する宗門学校の講堂での開催に変更された。有益な講話でも、足がしびれたのでは頭に入らない。会場変更は「善哉、善哉」ということになろうか。

三年前の本欄で触れたことだが、信者の来訪が多い寺院を訪れて、住職の部屋の様子が変わっているのに気付いた。前の年までは住職席に向かって座布団がL字形に並べられ、訪問者はそこに正坐していた。だがその年に筆者が訪れると、住職席も信者席も、いす式になっていた。

もちろん、信者の"膝事情"を考慮してのことだったが、後日聞いた打ち明け話によると、住職自身も膝の変調を感じ始めていた。「普通のいすでは空気が乱れるかもしれないので、茶道の立礼に使ういすを特注しました」とのこと。信者席の前には長い机が置かれている。小僧さんがその上へ茶菓を運んでくれる。

このように記すと、寺院のいす化は急速に進んでいるようにも感じられるが、実情はそう簡単ではない。従来のしきたりもあるし、建物の構造をすぐに変更できない事情も絡む。中国地方のある寺の檀家総代のAさんは、住職から頼まれた。近く管長さんを招き、法話をしてもらうことになった。ついては座布団五十人分を新調して寄進してほしい、という。

Aさんの財力を見込んでの依頼だ。Aさんに異存はないが、この寺では今しばらく、新調の座布団が活用されることだろう。

近畿地方の別の寺院で、副住職が言う。「これからはいすの時代ということが分かってはいるのですが、せっかく伝統様式を守って本堂と庫裡を新築したばかりなので、いすを入れる気にはなれません。いすを置くと、畳に傷がつきますしねえ」

だが、今秋の彼岸法要の後で、全員がいすに坐れるよう、三十脚増やすことを決めた寺院もある。

東南アジアの仏教国を訪れて気付くのは、信者が仏前で横坐りをしていることだ。正坐の姿勢を崩し、両足を体の右の方へ投げ出している。これなら、コンクリートの床の上でも、長時間坐っていられる。

日本の正坐は、いつ定着したのか。室町時代の礼法が起源とも、江戸時代の将軍に挨拶する儀礼から始まったともいわれる。釈尊の指示ではなさそうだ。人それぞれの坐り方が許されるのではないだろうか。

筆者の宗教記者生活の第一歩は四十三年前、真宗大谷派本山の春の彼岸結願法要取材だった。久しぶりに秋の結願法要に列して、いろいろ考えさせられた。