ニュース画像
多くの人が見守る中、彰義隊墓所で盛大に営まれた150回忌法要
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

社会生活に関わる人間性を育む宗教

2009年10月15日付 中外日報(社説)

社会を方向付ける理念は少なくない。自由、平等、正義、和、革新、秩序というようなものである。ただ、それらの並存は容易ではない。

自由を第一とすれば格差が生じて平等が損なわれる。平等を第一とすれば自由が制限される。正義を叫べば――正義とは一定の勢力が対立する勢力の不正をなじることだから――和が損なわれ、和を強調し過ぎれば正義が引っ込みかねない。秩序と革新が対立することについては説明の必要もない。

理念のバランスが必要なのだ。ということは、今はどの理念が優先されるべきかを正しく判断してかじを取ることが大事だ、ということである。とはいっても理念は権力あるいは勢力と結合するのが常で、そうでなければ理念だけでは力を持つことはできない。すると理念と権力(勢力)の関係が問題となるが、ここにもさまざまな可能性がある。

「自由」は権力の介入を嫌う。思想、信仰、良心、言論、集会、出版などの由由は権力の介入を拒否するものである。経済の場合は、自由は自由経済、自由市場を要求し、これが経済の発展を促したことは否定しようもないが、行き過ぎれば金融市場の暴走となって世界的不況をもたらし、現在では――アメリカで見られるように――逆に政府の監視・介入を招く事態となっている。

他方、平等の実現のためには権力が必要だから、平等は権力と結合しやすいものだが、平等を原理とした共産主義は思想統制をもたらしたばかりか、計画・統制経済も行き詰まって、市場原理の導入を余儀なくされた。

いわゆる枢軸国が、権力を国家目的の遂行のために用いて、自由も平等も、さらには人権一般をも無視して戦争を主導し、世界に多大の悲惨と損害をもたらした事例(第二次世界大戦)は忘れてはなるまい。つまり世界はこの百年の間に理念と権力のありように関するさまざまな実験を行ない、貴重な経験をしたといえる。

結局、社会を方向付ける諸理念のバランスを取り、それぞれに所を得させる可能性が最も大きい政体は民主主義だという通念が形成されている。しかし民主主義には常に多数の暴力と衆愚政治の可能性が付きまとう。民主主義の健全な運営のためには高い倫理性と教養が求められるわけである。

ところで、このような観点から宗教と政治権力の関係を考えるとどうなるか。権力との癒着の例はわが国でも例えば戦前、戦中に見られた。これは権力と宗教を共にゆがめるものであった。他方、宗教が権力と正面から対立する場合も悲劇を生む。わが国には島原の乱という事例があった。

新憲法では国家と宗教の分離が定められているが、やはり宗教は権力とは一線を画し、それをチェックできる立場にいるのが望ましい。信徒各人の持つ政治思想についても、教団が統制したり介入すべきことではない。

ただ、宗教が伝えてもきたし、養うこともできる人間性の自覚は、逆に社会にとっては極めて必要である。人間知と倫理性をはぐくむからである。

人間性は仏教的にいえば知恵と慈悲として現われる。この場合、「知恵」は個人の生活にかかわるだけではなく、社会生活にかかわる知恵、正しく理念と権力を選択する知恵に展開される必要がある。

宗教にそれが可能なことは人権思想を生み出した基督教が示している。むろん、基督教が現代においてどこまで歴史創造的であり得るかは、現代の基督教にとってもやはり課題だといわなくてはならないだろう。社会的に展開された「知恵」は必ず世俗化して宗教から離れ、利権と結び付く傾向を持つからである。