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開発反対訴訟に転機が訪れるか

2009年10月10日付 中外日報(社説)

明治から大正にかけて、西日本には時計屋が少なかったという説がある。東日本の交通は鉄道が主体。一秒遅れても列車には乗れないから、多くの人が時計を持つ。西日本は船便が中心で、海の時刻表はアバウトだ。遅れかけた客を二分や三分待っても、沖へ出てから取り戻せる。だから時計に縛られる度合いが軽かったのだとか。

時計の話はさておき、古来、瀬戸内海には多くの船が往来した。戦前、広島県の尾道港を出発した香川県多度津港行きの汽船は、三十分後、阿伏兎(あぶと)観音の鼻を回って広島県福山市の鞆(とも)港に寄港する。鞆では瀬戸内海の東と西から寄せて来る満ち潮がぶつかり合う。万葉集の時代から潮待ちの港として栄え、大伴旅人らが詠んだ歌も伝えられている。

尾道―多度津航路の船は百トン余と小型だが、鞆には接岸できる埠頭はなく、船客は陸地との間を艀(はしけ)で運ばれた。弓の形をした岸辺には、常夜燈が立ち、雁木(がんぎ)と呼ばれる石段が波に洗われている。古き良き時代の港の姿そのままだ。

その港の町をチェンジしようとしたのが広島県と福山市だった。港の一部を埋め立てて広い車道を通し、一部は橋を架けて港をまたぐ。これによって救急車も走りにくい鞆の町は一挙に活性化するし、人口減少にも歯止めがかかる。推進派にとっては、二十六年越しの悲願だった。

だがその一方では、工事に反対する住民もいた。いったん施工すれば景観は取り戻せないとして、広島地裁に差し止め訴訟を起こした。そして十月一日、広島地裁は「鞆の景観は国民の財産である」として、埋め立て工事差し止めを命じる判決を言い渡した。原告の全面勝訴だった。

昭和三十年代から四十年代にかけて、アイルランドやベトナムなど、動乱の地で生々しい写真を撮り続けたカメラマン、岡村昭彦さん(故人)は、公害防止や開発反対の住民運動も支援していた。当時、住民団体の起こした反対訴訟は、連戦連敗だった。

岡村さんは言った。「負けは今後も続くでしょう。大切なのは、どんな負け方をするかということです」と。条理を尽くした上での敗訴を積み重ねれば、きっと転機が訪れるという意味だったようだ。その言葉は平成十一年一月二十八日付の本紙で紹介した。十年後の今、一審判決とはいえ、行政側全勝の流れに変化の兆しが表われた。

約二十年前の和歌山地裁での和歌浦架橋反対訴訟は「歴史的景観が失われる」との主張が認められず、原告が敗訴した。裁判の進行中も和歌山県は、原告敗訴を見通したかのように架橋工事を進めた。判決が示された時には、工事はすでに完成していた。

平成八年、中国新聞(本社・広島市)が伝えたところによると、和歌浦架橋後は、橋を渡ろうとして集まる車のため交通は渋滞し、周辺の住宅街は子どもの遊び場が失われたばかりか、騒音や排気ガスで窓を閉め切る事態になったという。広島地裁の判決には、こうした現実が反映されたのではないか。

今回の判決は「国民の財産である景観」を守る視点から示された。受益者は国民全体である。埋め立て工事を待望していた賛成派住民のために、国民全体、つまり国が代償を提供すべきだ。山腹にトンネルを掘るとか、狭い町並みを走れる救急車を開発するなどの策を、国の施策として推進してほしい。

瀬戸内海の港をめぐる風景は戦後、埋め立て、護岸工事、架橋などが進み、昔ながらの姿を失った。それとともに、広島県だけでも呉市の御手洗、江田島市の飛渡瀬(ひとのせ)など、ゆかしい地名が忘れられかけている。鞆港をめぐる訴訟の広島地裁判決に接してさまざまなことを考えさせられた。