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戦中の父の日誌平和願って公刊

2009年10月6日付 中外日報(社説)

「亡き父の日記類出版に着手したのは四年前です。下士官として中国戦線に送られた期間の『従軍日誌』と、除隊後に一市民として過ごした『戦時日記』と。前者は加害者として、後者は被害者としての日本人の姿がまざまざと描かれ、近代戦では前線も銃後もないことが分かります。二度と繰り返してはならぬとの決意を込め、思い切って出版することにしました」

こう語るのは京都市山科区在住の大阪経済法科大学名誉教授、中村浩爾氏(法学博士)である。二人の妹さんの協力で読みづらい原文をパソコンに入力、一年がかりの編集作業で『中支戦線従軍日誌・ある通信兵の前線と銃後』を京都・文理閣から出版した。

日記の主は平成七年(一九九五)に八十一歳で死去した、元神戸製鋼所社員の中村數夫氏。生まれは原爆の爆心地に近い広島市中区本川町で、京大経済学部を卒業後、同社門司工場(現・北九州市)に勤務した。昭和十三年(一九三八)に広島の陸軍歩兵第十一連隊に現役兵として入隊、同十四年十月から約半年間、武漢周辺を転戦した。その間の体験や見聞を淡々とした筆致で「従軍日誌」につづり、除隊して職場復帰の後は終戦まで、空襲下の市民生活の実態を「戦時日記」として書き残した。

最初は亡き父を偲ぶ私家版とするつもりだったが、出版社から「歴史的に貴重な資料になりますよ」と言われ、広く公開する出版物にした。數夫さんの回想録や、浩爾さんらの解説的な随筆などを加えた。ここでは「従軍日誌」の部分を中心に紹介する。

一読して浮かび上がるのは、旧日本陸軍のずさんさと、戦争がいかに罪悪をもたらすかということの二点である。

まず前者だが、數夫さんは、歩兵部隊の中で通信担当兵という職務を与えられながら、通信機の扱いをほとんど知らぬまま中支(華中)へ送られ、現地で初めて十日間の教育を受ける。いわば中高年の社員に、いきなりパソコンを使わせるようなものだ。

当時の真空管が粗悪だったためか、通信機はよく故障した。いら立つ大隊長は數夫さんを「デクの棒」と呼び、同輩の曹長も「役立たずの無線電信」とののしる。しかも通信兵でありながら、日本の内閣が総辞職したニュースは、半月遅れで知らされるありさまだ。これでは情報戦に勝てるはずはない。

次に、戦争がもたらす残虐さの側面は……。冬の中国で外套(がいとう)なしに野営をしたり、腰まで濡れながら身を伏せたりの過酷な戦場では、どうしても心がすさむ。「部落掃討」作戦では家々を焼き払い、男を皆殺しにする。數夫さんが、通信兵は発砲するなと制止しても、部下は老人や幼児を狙い撃ちする。乾パンばかりの食事が続いた時は、農家から家畜や野菜を徴発する者がいた。

ある村では「匪賊」が二人捕らえられ、その一人の首を切り落とした。首はころころと谷間へ転がった。"処刑者"の名前は伏せられているが、果たして「匪賊」だったのか。そのような戦場にも、砲火がやむと「慰安所」ができる。

兵士たちは、重い装備を持ち、いつ内地へ帰れるかを思いながら、戦場を歩き続けた。數夫さんは反戦思想の持ち主ではないが、ある日の日誌には次のように書いている。「今の如く抽象的な"東洋永遠の平和"とか"八紘一宇"とか云っていたのでは、国民を宙に迷わせる」と。

昭和十六年に除隊した數夫さんが、再び戦場に送られなかったのは、門司工場が武器を生産していたためであろうか。空襲におびえる日々が続いた果てに數夫さんの故郷・広島は原爆で焼き尽くされる。馬を運ぶ貨車で広島へ駆け付けた數夫さんの一首――。

・火葬場と変わり果てたる広島に後を見せて我は去りたり