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大衆文化に生きる"仏教的"な人物像

2009年9月29日付 中外日報(社説)

宗教は直ちに文化ではない、宗教は文化の根であり文化は宗教の花である、という理解はかなり一般化しているだろう。だが、宗教的文化といっても密教美術のように宗教色の濃いものがあり、造園芸術のように、それだけを見たのでは宗教的背景に気付かれないものもある。

一般に宗教と文化の間には、文化が宗教にはぐくまれながら宗教から離れ、独立し独り歩きを始めるという「世俗化」の傾向があり、より世俗化した形態の方が文化としては広がりやすいといえる。

室町時代以降には能や茶道、軍記物語や俳諧などに仏教色があることは広く認められよう。だが、江戸時代には宗教色の薄い町人文化が勃興し、明治以降は西洋文化の圧倒的影響のもとに日本文化の仏教色はさらに希薄になっていったように見える。

しかし、現代でも密かに世俗に変身した宗教性があるのではなかろうか。例えば映画の「寅さんシリーズ」だが、一見、誠に世俗的な寅さんにはどこか宗教色がある。

寅さん物語の背後にはさまざまな宗教的モチーフが考えられる。どこからともなく現われて困窮を救い、立ち去ってゆく神秘的な人物像が東西を問わず存在する。日本では弘法大師であり、西洋には公女を救うローエングリンのような聖杯騎士伝説がある。結ばれないとはいえ多くの女性と恋に落ちる寅さんの背後にはドン・ファンの姿もちらつく。これらは太古からの願望を反映する元型的な人間像ではあるが、特に宗教的ではない。

寅さんには地位も名誉も財産も定職も教育もなく、妻子もいない。誰にでも親しみやすい、というより誰にでも優越感を持たせるような人物である。時々妹の家に帰ってはくるが定住する場所はない。名誉や富を欲しがる様子はない。

同じ長寿シリーズでも「水戸黄門」の場合は、民衆を苦しめる悪代官(強者)をさらに強い「前の副将軍」が懲らしめる筋であり、「釣りバカ日誌」は大会社の社長と平の社員が、釣りという趣味の世界では強弱の序列を転倒させる話である。共に身分ないし社会層の違いをひっくり返して見せることで、日ごろ抑圧されている人間の快感をくすぐる。

しかし寅さんは社会的には下層に属しながら、強者の支配に対して怨恨や「正義の怒り」を発するわけでもなく、といって卑屈になるわけでもない。「偉い人」にも平気で対等に接するのである。ノーテンキ(「何も考えずおめでたい」ことらしい)という俗語がぴったりするほど社会の構造をそのまま受け入れて、分け隔てなく親切である。

無知からくるコミカルな言動には事欠かないし、品の良からぬ言葉も口にするが、当人にはそれを恥じたり悩んだりする様子がない。劣等感などはなく、もちろん威張るわけでもない。この世や人間性への絶望や怨嗟も聞こえてこない。のんきだが、旅先での結ばれぬ恋のさまざまからは無常感が漂ってくる。

こうした人物から背景としてはるかに透けて見える原像は世を捨てた漂泊者である。物欲や名誉欲もなく、執着もこだわりもなく、勝敗や優越感や劣等感からも解放されて、無常の世の中で心清く慈悲に満ちた人間である。

むろん寅さんはこのような人物像をいわばストレートに表現しているわけではない。一見すると全く逆に世俗にどっぷり浸った、聖者とはまるで無縁でコミカルな人物である。だからこそ、そこには仏教的人間像がそれとは気付かれないほどに変容され、世俗化された形態があるのではないかと思われる。

そのような人物が国民的に愛好される。それを見ると現代日本の文化には仏教的理念が世俗化された形でなお強力に生き続けていると思われるのである。