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九十回忌迎えて楠瀬喜多を偲ぶ

2009年9月26日付 中外日報(社説)

もしその時、高知で地方紙が発行されていたら、高知県士族の女性、楠瀬喜多が「婦人参政権運動」の草分けとして記憶されることはなかったかもしれない。「その時」とは明治十一年(一八七八)九月十六日である(十八日説も)。

天保七年(一八三六)生まれの喜多は、二十一歳で土佐藩士・楠瀬正和(一説に楠瀬実)と結婚、明治七年に死別した。女性の喜多が楠瀬家の戸主(戸籍筆頭人)になった。

当時、国会はまだ開設されておらず、府県会(現在の都道府県議会)制度は明治十一年七月に太政官(政府)から布告されたばかりだった。地方行政は、現在の市町村議会に相当する区会、町村会の議決により進められていた。

区会等の議員は、年額五円以上の地租(税金)を納付した男子の選挙により選出された。女性には、選挙権も被選挙権も認められていなかった。

明治十一年のこの日、喜多は高知県庁に「納税ノ儀ニ付御指令願ノ事」と題した願書を提出した。その要旨は、亡き正和の納税の義務は喜多が引き継いだ。県は、税金は早く納付せよと督促するが、区会の選挙に投票せよとは知らせてこない。女性を差別するものではないか。戸主の地位にある女性には選挙権を与えるべきだ――と主張するものだった。

喜多の願書は、当時の男尊女卑社会でまともに相手にされるはずはなく、県から却下された。その経過は、平成十七年九月一日付本欄で紹介した。

だが、自由民権運動の中心地・土佐には、喜多の支持者がいた。その一人、森田時之助は、喜多の行動のあらましを翌明治十二年一月二十六日付『大坂日報』に寄稿、五日後には『東京日日新聞』に転載された。いずれも現在の毎日新聞の前身の全国紙である。喜多は広く各地の民権運動家から注目された。

喜多の訴えは、地元で間もなく実現された。大木基子・高知県立短期大学名誉教授著の『自由民権運動と女性』によると高知・上街(町)区会が明治十三年六月から約三ヵ月、県令(知事)と交渉、女性戸主の選挙権行使を認めさせた。続いて西隣の小高坂村村会も同じ要求を実現した。米国のワイオミング州議会などに次ぐ"快挙"だった。

上街区会を代表して県令と渡り合った小島稔が、明治三十二年に地元紙『土陽新聞』に寄稿したところでは、直後の区会議員選挙は「男子にして婦女に投票し婦女も亦男子に投票したるもの少なからず」であったが、女性の当選者があったという記録はない。

だが明治十七年、政府が「改正区町村会法」を施行したため、全国初の「婦人参政権」は四年間で消滅、太平洋戦争後まで復活しなかった。

『高知新聞』(当時)が創刊されたのは、上街区会と県令の折衝が行なわれていた明治十三年七月五日だが、なぜかこの新聞は、それに触れず、同紙はその後も、喜多には好意的でない報道を続けた。

高知の小学校教員・山崎竹は、女性の参政権を認めない市町村制施行を批判して明治二十二年、論文「自治制施行ニ就テ感アリ」を『土陽新聞』に寄稿した。しかし全国紙に報じられなかったため、反響は高知県内だけにとどまった。

喜多は、自由民権運動を推進した頭山満が高知へ来ると、旅費を用立て、後の衆議院議長・河野広中にも資金援助をして"民権ばあさん"と呼ばれた。

その後喜多は、肉親や養子、養女らに先立たれ、老後は剃髪して、日蓮宗要法寺の一室に身を寄せた。大正九年(一九二〇)十月十八日、数え年八十五歳で死去した時、右翼の大物として玄洋社を創立していた頭山が費用を出し、河野が揮毫して墓碑が建立された。今年は喜多の九十回忌。先覚者として顕彰する女性議員はいないであろうか。