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昭和二十年代の語り継ぎも大切

2009年9月10日付 中外日報(社説)

大山広司氏という元広島県議会議員(元議長)が九月四日、九十一歳で死去したという訃報が、各紙に掲載された。平成十九年に引退するまでの在職期間五十五年十一ヵ月は、全国最長記録とか。全国都道府県議会議長会の会長も務めた人だ。そのことをめぐり、個人的な回想を交えて記させていただきたい。

昨年秋のある新聞に、東京都東久留米市議会で、全盲の宮川豊史議員が副議長に選出されたという記事が掲載された。「全盲の視覚障害者の議長・副議長就任は、国政・地方行政を通じて初めて」とあった。

それを読んで、筆者が新聞記者になったばかりの昭和二十年代後半、広島県議会に、小谷伝一という全盲の議長がいたことを思い出した。「初めて」説は誤りであると、その新聞社に知らせた。

新聞社では、すぐに古い切り抜きを調べたらしい。だが昭和二十年代は、全国の新聞が半ペラ(二ページ)の時代である。一つの県の議長に選ばれたのがどんな人物であるかを詳報するスペースはない。

そこで広島県議会事務局に問い合わせたが、職員はすっかり入れ替わり、約六十年前のことを知る人は一人もいなかった。

県議会史にも、小谷議長が議場でどんな発言をしたか、政府にどんな陳情をしたか、などが記録されているだけだ。新聞社は「誰に確かめたらよいでしょうか」と言う。そこで思い出したのが、大山氏の存在だった。

筆者が新聞記者として広島県議会の取材を担当したのは、昭和二十年代の終わりから三十年代の前半にかけてだった。保守合同で自民党が生まれる少し前のころ、大山氏は保守系諸派の新人議員だった。定例議会で質問に立つ前には、質問内容の原稿を会派の先輩議員に示して、アドバイスを求めた。真面目な人柄は他会派の議員からも信頼を集めていた。その大山氏が県議会に初当選したころの議長が小谷氏なのだ。

都道府県レベルの議会には、時として型破りの大物がいることがある。当時の広島県は、ポスト争いのこじれから議場で乱闘騒ぎを起こした人、同僚議員を懐柔するために小判を買ってばらまいた人など、さまざまだった。

そのような豪の者ぞろいの県議会を収めるには、盲目のハンディはあっても議員歴の長い小谷氏を議長に選ぶしかなかった。大山氏なら、当時の県議会の事情をよく記憶しているはずだ。しかし昨年秋、大山氏はすでに面会謝絶状態だったとも聞く。

小谷氏の議長時代、議長室を訪れる議員は入り口で「○○がまいりました」と名乗り、握手してから用談を始めた。記者会見の時は秘書が「皆さんおそろいです」と告げる。すると小谷氏は「A社のMさんは来ておられるか」と確かめてから語り始めた。M記者は、手厳しいが的確な評論を書くことで、小谷議長から信頼されていた。自分に最も厳しい記者を高く評価していたわけだ。M記者は本社転勤後も要職を歴任して引退、今年五月に九十歳で死去した。大山氏とほぼ同じ年代を生きた。

戦後六十四年を経て、戦争体験を語り継ぐことの大切さが叫ばれている。しかし小谷氏の事跡がほとんど忘却され、さらに大山氏死去の報に接した今、戦後の昭和二十年代についても語り継ぐことの困難さを感じさせられる。寺院界の檀家組織を追跡することを、継承のための足掛かりとすることを考えてもよいのではなかろうか。

「盲目の県議会議長」が記憶のかなたに消えかけているのに、仏教界では「真宗大谷派に昭和二十六年、暁烏敏という盲目の宗務総長がいた」ことがしっかり記憶されている。宗門財政の赤字を一年間で解消した手腕が語り継がれる。超宗派の記録性の確かさを思うことしきりである。