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一つの橋が刻む知られざる戦史

2009年8月29日付 中外日報(社説)

広島は、デルタの街と呼ばれる。川は、支流を集めながら下流へ向かって水かさを増していくものだが、広島市へ流れ込んだ太田川は、支流を分けながらデルタを形成する。

広島はまた、路面電車網の発達した街である。都心の紙屋町交差点を発した東行きの路線は、稲荷大橋で京橋川を越えた後、広島駅に達する。

昭和二十五年に完成した稲荷大橋は、人も車も電車も通れる近代的な橋だが、戦前は電車専用の鉄橋しかなかった。電車通りを拡幅し、近代的な橋を架けるという都市計画は、戦争のため中断されていた。

わたくしごとを許していただくなら、小学生時代の筆者は、鉄橋の西詰めに住んでいた。戦争が激しくなりかけたころ、夕方になると鉄橋のそばで、途方に暮れて立ち尽くす家族連れをよく見かけた。

当時、紙屋町周辺の都心部には、歩兵、騎兵、砲兵などの部隊があり、全国から召集された兵士が次々に入隊していた。戦地へ送り出されるまでに、別れを惜しむ家族たちが面会に訪れる。再び生きて会えるかどうか分からない、切ない面会と別れが続いた。

行きは全員、紙屋町まで電車を利用した。だが帰りは徒歩である。距離は二キロそこそこだし、電車道に沿って歩けば、広島駅に着くはずだ。しかし京橋川まで来ると街路が途切れ、電車の渡る鉄橋しかない。

そんな人々に対して、地元の子どもたちは、上流の橋へ回れば駅へ出られると教えることが、日課のようになっていた。道案内をしてあげたという、小さな満足感が残った。だが、なぜその人々が、歩いて駅へ向かっているかに思いを致すことはなかった。

当時の電車賃は、一人七銭か十銭だった。なぜそのわずかな金額を惜しんだのか。恐らく、帰りの電車賃の金額まで、当座の小遣いとして、面会した兵士に与えてしまっていたのではないだろうか。そのような家族たちの切ない気持が筆者に分かるようになったのは、戦後、成人してから以後のことである。

やがて、鉄橋のそばで立ち止まる人々の姿は見られなくなった。軍の動静は秘中の秘となり、兵士の家族は、どこへ行けばわが子に面会できるか、知るすべがなくなった。また民間人の工場への徴用が強化され、列車の切符は入手しにくくなる。お国に捧げた息子の面会に行くのは恥ずべきこととする風潮が強まる。そして各都市が次々に爆撃を受け、やがて広島には原爆が投下された……。

稲荷大橋の来歴を伝える資料の中には、近代橋に架け替えられる以前の鉄橋が原爆による爆風のため、下流方向へ弓なりに曲がっていたと記すものがある。しかし鉄橋が曲がったのは、原爆でなく、それに先立つ水害のためだ。二年ほど前に、太田川上流の林業地帯から伐り出したばかりの材木が流れて来て、鉄橋に引っ掛かり、水圧で橋を曲げてしまった。

水が引いた後、修理しようにも鉄材がない。徐行運転すれば、電車は何とか通れるということで、戦後に至るまで、電車はゆっくりと橋の上を通過していた。もちろん、爆心から一・三キロ余の場所だから、爆風で多少の被害は加わっただろうが、方角から見て橋の本体が被爆で曲がったとは思えない。

広島平和記念資料館学芸担当の宇多田寿子さんによると、この水害は昭和十八年九月二十日の台風26号で起こったらしいという。なぜ「らしい」付きかというと、戦時中は天気予報の発表は禁止され、まして台風で大被害が出たなどは、最高機密として新聞にも発表されなかったからだ。

稲荷大橋一つの経歴にもこのように、知られざる物語がある。安芸門徒の地に住む市民にも、軍都と呼ばれることを誇りとした時代があった。いまさらのように平和の尊さを思う。