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八月ジャーナリズムと基地問題

2009年8月18日付 中外日報(社説)

「八月ジャーナリズム」という言葉がある。広島、長崎原爆忌と終戦記念日に寄せて核廃絶、平和報道が集中する現象をいう。今年は非核と原爆投下の道義的責任に触れたオバマ米大統領発言があり、とりわけ熱を帯びた。だが、夏が過ぎると「賞味期限切れ」とばかり冷めてしまうという皮肉も含意している。北朝鮮の核実験再開など国の平和と安定をめぐる内外の環境が厳しさを加える中、今後も恒久平和を願う立場からの持続的な報道をジャーナリズムには期待したい。

ところで平和報道のピークを過ぎて気にかかることが一つある。沖縄問題だ。

「五年前の夏。沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した時、地元紙にこんな県民の投書が載った。〈普段は癒やしの島などとおだてているのに、米軍基地問題になると手のひらを返したように見向きもしなくなる。あなたたちにとって沖縄とは何ですか〉

『基地の中に沖縄がある』とすら言われる島に今日も本土の観光客が集う。あの日、燃え上がったアカギの木は黒く焦げたまま、立ちつくしている」

七月下旬のA紙夕刊一面のコラムの文章である。沖縄県民が日々苦しむ米軍基地問題に「あなたたち」つまり本土住民は無関心でいいのだろうか、との文意を沖縄諸島などに育つ樹木アカギで引き立てた。簡潔な名文だ。ヒロシマ、ナガサキに関心が向かう中で忘れられがちな沖縄に目を向けた感覚はさすがだと思う。しかし、筆者にはどこかざらついた違和感が残っている。

そもそも沖縄の基地問題への本土側の無関心は、マスメディアの無関心と表裏一体の関係ではないのか。「あなたたち」にメディアが免責されているとは思えない。コラムの高みに立ったようなもの言いからは、そのニュアンスが伝わって来ないのである。

沖縄国際大キャンパスに米軍普天間基地所属のヘリが墜落・炎上した事故は五年前の八月十三日、終戦記念日の二日前に起こった。米軍は沖縄県警捜査員さえ排除して機体を撤去し、大学関係者は一週間大学から閉め出されたという。当時「沖縄は植民地か」と激しい怒りが地元で噴出したが、沖縄が置かれた現状を象徴してもいた。以来、沖縄では毎年この日に合わせ県民の抗議行動が続いていると聞く。だが、報道は乏しく、それを知る本土住民も多くはあるまい。

平和を考える時、沖縄は常に重いテーマを突きつける。ヘリ事故では、危険な普天間基地を県内の辺野古沖に移設する既存の計画が注目された。だが、移設案は住民の強い反対で進まない。沖縄の基地負担の軽減という政府の説明に反し、移設案の内容が「基地機能の強化」だから、という理由だ。日米両政府で合意した米軍再編も沖縄にとっては負担の拡大にしかならず「新たな琉球処分」とさえ批判されている。(『世界』七月号など)

基地の重圧にさらされる県民のそんな声が、なかなか届いて来ない。基地をめぐる事件などが報道されることはあっても「八月ジャーナリズム」ではないが、一過性に終わりがちと思われるからだ。

沖縄と本土との隔たりについて関西沖縄文庫(大阪市大正区)を主宰する金城馨さんは、沖縄のかつての本土復帰運動が日本を「祖国」と思ったのは勘違いだったと言う。そこまで思い詰めた直接の要因は「9・11同時テロ」の際、本土から沖縄観光のキャンセルが続出したことだ。

「本土の住民は沖縄の米軍基地の危険性を知り、沖縄の痛みも理解していながら基地を押し付けていることに気付いた」。そのように語る金城さんの主張を聞いて、筆者は考え込んでしまった。

平和を祈る夏が行く。しかし、沖縄では今この時も平和が脅かされていることを肝に銘じておきたい。