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五十周年迎えた「千鳥ヶ淵」墓苑

2009年7月30日付 中外日報(社説)

「靖国神社は参り墓。ここ千鳥ヶ淵は埋め墓。どちらも大切です」。昭和五十七年の晩春、千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会の事務所で、当時八十一歳の美山要蔵理事長は語った。東条英機元首相ら十四人のA級戦犯が靖国神社に合祀されてから四年後だった。

陸軍大佐・陸軍省高級副官(各省の官房長に相当する地位)で敗戦を迎えた美山氏は、その直後、東条元首相から「軍の後を清く」との"遺言"を受けた。清らかに陸軍の幕引きをするには、海外にある三百余万人の将兵を帰国させ、二百四十万人の遺骨収集を果たさねばならない。

そのために美山氏は、戦後十七年にわたって第一復員省文書課長、厚生省(当時)引揚援護局次長などを歴任した。無縁の遺骨を祀るため、千鳥ヶ淵に超宗教の戦没者墓苑建設を実現させたのは美山氏だ。かつての"戦友"のために奔走し続けた日々だった。

美山氏に「戦友」という言葉を自覚させたのは、旧敵国・豪州の軍人である。昭和二十一年十二月、日本占領軍のゴスレットという中佐から、ラバウルの軍事法廷に証人として出廷するよう頼まれた。被告は元第八方面軍司令官、今村均・元大将で、その職務や人柄について証言してほしい、という。

復員の業務が忙しいのでとても行けない、と断わると、ゴ中佐はしかりつけるように言った。「日本ではサムライはお互いにブラザー(武士は相身互い)というではないか。ゼネラル・イマムラは部下の罪を一身に引き受けているから、このままでは死刑になる。私は一人の軍人として、名将イマムラの命を救いたい。その証言ができるのはミヤマ、旧知のあなたしかいないのだ」

そこまでゴ中佐に言われて、拒否はできない。日蓮宗信者の美山氏は、決心した。「私は昭和の阿仏房になろう」。九十歳の高齢の身で、佐渡から身延山の日蓮聖人を訪ねた阿仏房の故事を想起し、旧上官の今村氏を弁護するため、熱帯の島へ飛んだ。

昭和二十二年三月から五月にかけて、回り道をしながらラバウルへ。対日感情の悪い比国や豪州を通過するため、途中の宿泊はすべて刑務所だった。東京へ帰ると、ゴ中佐がねぎらいの言葉を述べた。「あなたの証言のおかげで、イマムラは十年の刑で済んだ。御苦労だった」。この時の「武士はブラザー」の言葉が、その後の美山氏の生き方を決めた。

昭和三十七年に厚生省を退官した後は、千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会の専務理事などを経て、同会理事長になった。週二回、半日ほど出勤すればよいとのことだったが、美山氏は日曜も休まず、午前七時には家を出た。「墓苑には毎日、だれかが参拝に来る。それも休日が多い。みんな"ブラザー"かその家族です。休んではおられません」

東条元首相の"遺言"を受けたことから、昭和五十三年のA級戦犯十四人の靖国神社合祀には、美山氏が仕掛人として行動したのではないか、と見る向きもあった。八十六歳で死去するまで、美山氏は一切、語らなかった。

今年になって講談社から伊藤智永著『奇をてらわず・陸軍省高級副官 美山要蔵の昭和』が出版された。美山氏の残した日記をもとに同氏の生涯を回顧したものだ。それによると、美山氏は靖国神社崇敬の念はあついが、A級合祀にはかかわっていない。むしろ各地での遺骨収集の体験を通じて、靖国に合祀されることのない民間人や無名の人々の追悼と慰霊に全力を注ぐようになっていた。

美山氏が、志を同じくする人々とともに実現させた「千鳥ヶ淵」は、今年で五十周年を迎えた。だが、かつての戦場にはなお多くの遺骨が残され、死没者の慰霊については、今も意見が分かれている。日本の"暑い戦後"はなお続く。